ひきこもる その決断は

ここ数年、ひきこもりの問題が社会問題としてクローズアップされています。

ひきこもりとは、社会からの居場所を自ら撤去して、安全な居場所(家、部屋)にこもることを意味しています。

ではなぜ人は社会からひきこもるのでしょうか。
(今回はひきこもりについて書きますが、18歳前の方の不登校の問題ではなく、それ以降の分別のある年齢の方がひきこもる問題について書きます)。

それは、自分が生活をする空間の社会のなかに安全な居場所がないからではないでしょうか。
もう少し正確に書くと、「自分の所属する空間に心が安定する安全な居場所がない」と言っもいいと思います。

でも心が安定する安全な居場所とは何でしょうか。

確かに人の存在する場所は物理的にはあります。
目に見えてあります。
例えば大学における教室、机、椅子。
職場における自分の机と椅子。

それでは、「自分の所属する空間に心が安定する安全な居場所がない」ということは何を意味するのでしょうか?
それは、自分が安心して居れる場、心が安心出来る場がないということなのです。
逆に書くと、「自分の心が傷つく場が、自分が所属している空間である」ということです。

人は心が傷つき、限界まで我慢して、もう耐えられないと感じた瞬間、社会より遠ざかり、社会よりひきこもることを選択するのだと思います。

さて、ここでよく言われる意見があります。
「それは甘えだ」。
どうなのでしょう。

ひきこもるということは、傷つくことから自分を守るということです。

ひきこもらないと、自分がボロボロになってしまうので、ひきこもらざるを得なかったのではないでしょうか。
また、ひきこもるという行為が発生して始めて周囲は騒ぎ出すのかもしれませんが。
実際にはひきこもる以前から本人は当然何らかの心のダメージを受けており、その心のダメージは社会(職場・学校)からのダメージではなく、社会に出る以前の親子間における心のダメージであるような気がします。

したがって社会に適応出来ず傷つきひきこもるという形ではありますが、それはきっかけに過ぎず、生育歴の幼い時から心の傷を抱えているのではないでしょうか。
そして、日々生活するなか、さらに心のダメージを次々と受けた結果、もう「限界」となりひきこもることを決断されるのです。

したがって、ひきこもるということは自分が生きるために必要な手段であるということなのです。

では、社会から退却してどこにひきこもるのでしょうか。
これは冒頭に書きましたように家か部屋です。

1 家にこもる
部屋ではなく家にこもります。
家にいるので協同生活者の家族とは会話やつながりがあります。

2 部屋にひきこもる
部屋にこもりまったくの1人です。
家族の誰とも話しません。
完全な孤立状態です。

どちらのひきこもり方が辛いかかと考えますと、まったく1人で部屋にこもるパターンでしょう。
誰とも会話をすることもなくまったくの孤独なのですから。

さて、自分を傷つくことから守るために社会からひきこもることを選択するのですが。
再度問いです。
ひきこもりは甘いのでしょうか?

ここで考えなければならないことは、ひきこもりを選択する際、ひきこもることが許される環境で生活をしているということです。

それは親が経済的基盤をしっかり持っているということです。

ひきこもるということは何もしないことを選択するわけですから、当然収入はありません。
働かなくても、収入がなくても、生活出来る環境がなければ本人はひきこもることは出来ないのです。

学説によると、ひきこもりを生じる家庭の年収は世間平均以上であり、世間平均以上の家庭では子供に対する期待も強く、その期待の強さゆえに子供が親の期待に応えようと一生懸命であり、その結果子供の個が発達せず、もろく壊れやすく、傷つきやすく、燃え尽きてしまい、ひきこもるのであるという説もあるようですが・・・。

これは疑問です。
先ほど書きましたように、ひきこもるには親の経済的安定が必要ですので、結果としてひきこもりが許容されていることを、理屈づけているのかもしれません。
真相は不確実です。

さて、ひきこもりが甘えかどうか、私は判断する立場ではありません。
しかし、どうしようもない辛い状態に陥ってひきこもりが許容される家庭と、物理的に許容されない家庭があることも事実でしょう。

では、ひきこもらなければ自分を守れない事態に陥っても、ひきこもることが出来ない場合は、その後どうなるのでしょうか???

さて、ひきこもり。
その回復には社会復帰が重要ですが、社会に復帰する際に大切なことは何でしょうか?

次回は社会復帰と存在の否定について書きたいと思います。