人生 心 スピリチュアルへのメッセ−ジ
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2007年03月22日
肯定的意味の創造
私たちはとてつもない苦労にぶつかった時、または悲劇に見舞われた時、そのことをどう捉えるでしょうか。
例えば突然の解雇失業、事故で半年入院、近親者の死・・・。
どうしようもない絶望感、怒り、悲しみを感じることと思います。
「なぜ、自分だけが」「神は自分を見放したのか」「もう、生きていく力もない」。
怒りや悲しみからマイナスの側面をのみ焦点をあて、将来を絶望視してしまうかもしれません。
分かります。その気持ちは。
でも、時が過ぎ以前と同じように怒って、悲しんでばかりいて、失意から家に閉じこもって、何もしなければ・・・。
時間はどんどん過ぎていきます。
もちろん、人には選択の自由がありますから、ずっと怒り、悲しみ、その傷が癒えるまで永遠に何もしないでいることも出来ます。
どんなことにも意味があります。
必ず。
物事は陰陽一体です。マイナス面の裏側がプラス面です。
ですから、どんなに辛い出来事が起こったとしても、必ずそこにはプラスの肯定的意味が存在するのです。
例えば突然の解雇の場合です。
子供2人を抱える50歳の父親が職を失う。悲劇だと思います。その結果、大学3回生の長男は父から学費を払ってもらえないため、退学を余儀なくされるかもしれません。
母はパート勤めを開始、本人である父はなかなか再就職先が見つかりません。まさに経済的困難を経験するかもしれないのです。
では、ここに肯定的意味を見つけることは出来るのでしょうか。
第三者の私が客観的に見て、この家族において肯定的意味を見つけることは難しいです。
しかし、肯定的意味を見つけることは私の仕事ではありません。
体験している当人の仕事なのです。
もちろん一緒に探すことは可能です。
そして肯定的意味は、すぐには見つけられないかもしれません。時の経過と共に事態は変わり、その意味が見つかることも多々あるのです。
長男は大学中退後働くことを選択、前向きに就職活動を行い就職をした会社で営業力を発揮。良き仲間にも出会えました。
母はパートで働くことにより、働くこと新たな人間関係を作ることに新鮮さと喜びを感じました。
父は失業後再就職も思うように進展しません。でも、この苦労を多くの同志と分かち合いたいと思い、アルバイトをしながら失業をした父親のコミュニティを創設することを選択。マスコミの脚光を浴びる。
逆境となる事態、危機が訪れたとしても、私たちの前向きな選択、その辛さの経験もプラスのものにしようと選択することで、人生の新たな肯定的側面に徐々に光があたるのです。それは私たちの発見を待っているかもしれないのです。
そして、「そうか、あの時の苦しみはこのためにあったのだ」と気付く時も多々あるのです。
辛さのなかでも前向きな選択を行い、辛い経験をプラスにしようとすることを選択することには、私たちの意志が大きくかかわってきます。
意志とは決意と言葉を変えてもいいかもしれません。
私のことを少し書きます。
私は37歳の時会社を退職しました。その時私は、自分が幼少期より経験をした様々な心理的苦痛、苦悩、これらを克服した今その経験を絶対的価値あるものにしたいという意志、決意のもと退職したのです。
私は楽しい子供時、青春時とは無縁でした。この時期を「陰」とします。しかし、陰陽一体と考えると必ず「陽」があるはずなのです。
私は自分の経験した陰の様々な経験を陽にするために、カウンセラ-になったのです。
そしてここには、過去の陰の経験を絶対的価値あるものにしたいという、肯定的意味の創造があったのです。
そうです。意味は創造出来るのです。
私たちが何か辛い経験をしてそこから回復した時、その力は計りしれません。
その力をいかに人生に活用するか、そこに意味があるのです。
何か困難にぶつかった、辛いことが起こった、これじたいが人生からの問いかけなのです。
そして、その事態に対していかに振る舞うか、意志と決意のもと何を選択するか。
肯定的意味を創造するかどうか。
すべてを決するのは自分自身なのです。
投稿者 stella : 22:47
2007年03月14日
人生を問う
前回は選択と責任について書きました。
私たちは選択を行います、すると責任が生じます。
人生は選択と責任の連続です。
そして究極の選択はいかに生きるかです。
それは人生に対する責任でもあるのです。
人生を選択と責任の連続体であると考えますと、ある悩みには有効です。
その悩みとは「何のために生きているか分からない」という悩みです。
多くの生き物がその生涯をかけてすることは何でしょうか。
「種の保存」、「固体の維持」です。
種の保存とは子孫繁栄、固体の維持とは生命維持です。
まず種の保存についてですが、人間は結婚を選択出来ますので種の保存、子孫を残すことを選択されない方もおられます。
それはそれでいいことです。
問題は生命の維持、固体の維持です。これは生きるということです。
人間以外の動物は大脳が発達していないので、「何のために生きる」とは考えず、生きること生命の維持に専念します。食べる、寝る、筋肉を動かす・・・。
しかし、人はそれだけではありません。
生きるがゆえに悩むのです。
当然です。
ですが「何のために生きているか分からない」この空虚感を伴う悩みは一体どこからくるのでしょうか。
生きることの目標の欠如でしょうか。
この問いに対する答えの1つとして、選択と責任論は有効です。
人生は選択と責任の連続です。そして選択をした以上は、それに伴う態度・行動が付随します。
この態度・行動こそが、人生を問うことに対する1つの答えかもしれないのです。
例えば会社に就職したものの、会社が倒産して失業をした若者がいます。今、彼はこの人生の転機に弁護士を目指すことを選択します。彼は司法試験に受かるために日々法律の勉強をします。
ここで、発想を転換します。
若者は会社が倒産して失業しました。ここで彼は「これからどうする」という、人生からの問いかけに直面したのです。
そして、彼は弁護士になることを選択しました。弁護士になるには試験勉強をする責任を果たさなければなりません。そして、彼は司法試験勉強に専念する態度・行動を取ったのです。
すなわち、「今後どうする」という人生からの問いかけに対して、司法試験勉強に専念する態度・行動で応えたのです。
では、弁護士を目指すことを選択したものの、勉強をする責任を果たさない場合はどうでしょう。弁護士を選択したが勉強することを選択しなかった場合は、勉強すべき時間にテレビを見ること等よって時間を費やす態度行動で応えるのです。
会社が倒産し、「これからどうする」という人生の問いかけに対して、日々テレビを見る態度行動で人生の問いかけに応えたのです。
彼は司法試験には受かりません。そして、受験に失敗し際再び人生から問われるのです。
「これからどうする」と。この時また選択が生じます。そして、選択したことに対する責任とそれに伴う態度・行動・・・。
私たちは人生からの様々な問いかけに対して、選択と責任、そして態度・行動で応えているのです。
何が良くて、何が悪いとか、態度行動に対する価値判断をするつもりはありません。
人生の問いかけに対して、いかなる選択、態度行動で応えてもいいのです。
先ほど発想を転換してと書きました。
それは。
人生とは問うべきものではなく、人生から問われるものであるからです。
「何のために生きているか分からない」この問題で悩んでいるとすれば、発想を転換すればいいのです。「私たちは人生の問いかけに応えるために生きている」そう考えると、人生を問う悩みはなくなります、
逆に、「いかに人生の問いかけに応えるか」常に襟を正し、選択と責任に伴う態度・行動を考えるでしょう。
ここまでお伝えしてきた、選択と責任、態度・行動は、実存心理学者、ヴィクト-ル・フランクルから学んだことです。
フランクルは言います。
「我々が人生を問うのでない、人生のほうから我々に問いかけてくるのだ」
私たちは人生からの問いかけに対して、いかなる態度・行動で応えるか。選択責任を果たすか。
そして、私は思います。
選択したことに対して、いかなる態度・行動をとるかによって、私たちは自分自身、生涯をかけて人生に証明しているのです。
「人生とは自分とは何者であるかを証明する場である」
投稿者 stella : 09:34
