不安の共有と連帯、その弊害

前回不安、不安感について人に話すことは、気持ちの共有や連帯が図れ、不安を抱えている人の気持ちが整理されたり、安心感を得たり、不安の軽減効果もあり楽になると書きました。
今回はその逆。不安の共有、連帯における弊害を書きたいと思います。
ここで言う弊害とは、人としての成長に対する弊害のことです。
では、不安の共有、連帯がなぜ人の成長に弊害をもたらすのか?
考えてみましょう。

弊害をもたらす気持ちの共有、連帯とは、人間関係における不安の回避を図ることを第一としていると思います。
詳しく書きますと、人間関係がうまく築けない人がいます。そして、このタイプの人は同じく人間関係を築くことが苦手な人と手を組むのです。類は類を呼ぶとでも言いましょうか。

何人かの人が集まっています。そこに、人間関係を築くことが苦手なAさんが入って来ました。彼は初対面の人と気楽に話すことが出来ず(話したくない)、でもひとりぼっちの疎外感やそこからくる不安を感じたくないと思っています。
彼はどのような行動をとるでしょうか。話したくはないが疎外感を避けたい。
考えられることは、自分と同じようなタイプを探してその人と一緒にいることです。
でも、これは友人になりたいからではなく、単にその場にひとりぼっちでいることが嫌なので、その事態を避けるために一緒にいるだけですから、人として相手から学ぼうとか、相手を尊重する姿勢もありません。

私も過去心理的ひきこもりでした。人間関係を築くことが苦手でした。学生時はクラスでも浮いた存在でした。
では、私がどのように学生時を過ごしたか。少し振り返ってみたいと思います。
クラスで気楽に話しが出来ない学生は少数派です。したがってその他大勢のクラスの人間は敵です。なぜ敵かというと自分とは異質な連中であり、自分と異なる者が大勢いるため、その結果自分は浮いてしまい、辛くなるという短絡的な自分勝手な発想です。
そして、その大勢の敵のなかで私はいかに振る舞ったのでしょうか。
それは、自分と同じタイプを見つけて一緒になることなのです。
さすがに1年間クラスでひとりぼっちを続けることは、慢性的な孤独と不安を感じます。自分と同じタイプと一緒にいることにより、孤独感、不安を和らげたのです。
でも、仲良くなりたいわけではなく、ひとりぼっちが嫌で一緒になったわけですから、1年間一緒にいたとしても、それほど関係性も深まらず、クラスが変わればサヨウナラでした。

大勢の敵に対決するために、一緒になったのですから。当然です。
敵がいなくなれば、敵が変われば一緒にいる必要もなくなるのです。
不安に対して一緒にいることにより、気持ちの共有と連帯を図りました。
この方法の継続からくる問題は何か。
それは人として成長しないことです。

人は様々な人を通して成長します。同じタイプの人間としか付き合わないということは、違うタイプと付き合うことが出来ず、違うタイプの持っている良いところを学習することも出来ません。
したがって対人関係スキルの向上が図れず、自己成長も難しいのです。

不安、孤立の感情から自分を守るために、人と一緒になることからは、学ぶことや体験も少なく、真の友人ともなりえないのです。