「世間体」に囚われる生き方:それは無意味な自己束縛かもしれません
「世間体を気にする」、「世間体が気になるから言えない」。
そう仰る方をよく見かけます。
誰にも相談できず、世間からどう思われるか、という不安にがんじがらめになっている様子は、とても辛そうに見えます。
しかし、そもそも「世間体を気にする」とは、一体どういうことなのでしょうか?
「世間体」に囚われることの無意味さと、その危険性
Index
1.「世間体を気にして生きる」とはどういうことか?
2.「世間体」を気にして生きることの無意味さ
3.「世間体」に囚われることは、あなた自身を追い込むことに繋がる

1.「世間体を気にして生きる」とはどういうことか?
私たちが口にする「世間」とは、おそらく、自分を取り巻く周囲の人々の目や、彼らが抱いているであろう漠然とした考えのことでしょう。
そして、その「周囲の目や思いを気にする」ということは、具体的に何を気にしているのでしょうか?
それは、多くの場合、「社会において好まれる、評価される」とあなたが勝手に思い込んでいる、ある基準や価値観に自分が達しているか、沿っているか、合っているか、ということではないでしょうか。
あるいは、「社会通念上重要」とされることを自分の中に取り込み、その基準を自分が満たしているか否かを気にしている、とも言えるでしょう。
これが、「世間体を気にして生きる」という状態なのだと考えられます。

2.「世間体」を気にして生きることの無意味さ
しかし、考えてみてください。世間において、明確な社会通念、価値観、達成基準といったものに基づき、人を判断する明確な「指標」など、どこにも存在しません。
おそらく「世間体」とは、「なんとなくこんな感じ」という漠然としたイメージで成り立っている程度のものではないでしょうか。
そして、「世間体を気にする」という行為は、その漠然とした他者の基準、つまり「世間体」を、自分自身の状態と比較した結果生まれるものでしょう。
このような、根拠の曖昧な他者の基準と、自分を比較することに、一体何の意味があるのでしょうか?
世間体を気にする人は、自分自身が抱いている「世間体(基準、物差し、状態、状況)」に基づいて自分を判断しているのかもしれません。
しかし、その判断基準の持つ意味を、本当に深く理解されているでしょうか?
事実、私たちが「世間体」と呼んでいるものは、漠然とした、まるで幻のようなものです。
なぜなら、社会には実に多様な人々が生活しており、その多様性を考えれば、誰もが納得するような「世間体の基準」を構築することなど、不可能なのです。

3.「世間体」に囚われることは、あなた自身を追い込むことに繋がる
さらに言えば、世間体ばかりを気にしていると、あなたは自分自身を自分で追い込んでしまってはいませんか?
世間体を気にしすぎる人は、「世間からどう思われるか」という不安に囚われるあまり、社会にヘルプ(援助)を求めることが苦手な傾向があります。
それは、「助けを求めるのは弱い人間だ」、「努力が足りない人間だ」といった、これもまた漠然とした「世間体」に勝手に縛られているからです。
また、社会に助けを求めるような事態になった時に、世間体を気にして「後ろめたさ」を感じてしまうこともあるかもしれません。

私は、世間体を気にして生きることは、「生きづらさ」を招くと考えています。
社会の援助も受けられず、親身に相談できる人との出会いの機会も失い、結果として孤独や孤立を深めてしまうだけではないでしょうか。
もちろん、この社会には様々な人がいます。
勇気を出して世間体を気にせず、ヘルプを求めたり、相談したりした結果、心ない悪口や陰口を言われることもあるかもしれません。
でも、そんな言葉は放っておきましょう。
あなたにとって本当に大切なことは、心ある、あなたの味方となってくれる人と出会うことなのですから。
この社会には、心優しい人々が想像以上に多く存在することを忘れないでください。
悩みは、決して一人で抱え込まないでくださいね。
「世間体」は気にする必要はありません。
なぜなら、そもそも「世間体」という名の明確な基準は、どこにも存在しないのですから。