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社会現象:見過ごされる「異常の正常化」と私たち自身の感覚の麻痺

異常な状態が「当たり前」になる時、私たちの社会に何が起きるのか

私たちは日々、様々な社会や集団に属して生きています。
学校、職場、地域コミュニティ、そしてインターネット上のグループなど、人はそれぞれの事情や状況、時には強制によって、そうした集団の一員となります。

しかし、そこで私たちが直面するのは、これまで「異常」だと考えていた思考や行動が、いつの間にか「正常」として受け入れられている現実ではないでしょうか。

Index
1.学校におけるいじめ:麻痺したシステムの温床
2.ネット上の誹謗中傷:倫理観の欠落と「異常の正常化」
3.崇高な理想も霞む「異常な集団」の圧力

1.学校におけるいじめ:麻痺したシステムの温床

例えば、学校におけるいじめを考えてみましょう。
いじめは本来、絶対に許されない「異常」な行為です。
しかし、いじめが日常的に行われているクラスでは、その「異常」が「普通」のこととしてまかり通っているように感じられることがあります。

多くの生徒がいじめに違和感を覚えているはずなのに、なぜ何もできないのでしょうか。
一部の生徒だけでなく、クラスのほぼ全員がいじめに加担しているようなケースも存在します。
これは恐ろしいことですが、まさに「いじめの正常化」が起きていると言えるでしょう。

本来、異常なはずの行為が日々繰り返され、蔓延することで、人は抗しがたい無力感に襲われます。
そして、その感覚や感性が麻痺し、異常な状態が日常となり、正常化していくことがあります。

学校におけるいじめは、教育委員会、学校、教師、そして生徒という集団システムが複雑に絡み合って発生する社会現象です。

見て見ぬふりをする教師、いじめられたくないために加害者となる生徒など、そこには人としての感性や感覚が麻痺した社会の縮図が見て取れます。

2.ネット上の誹謗中傷:倫理観の欠落と「異常の正常化」

インターネットの世界では、さらに深刻な「異常の正常化」が進行しています。

SNSやブログなどで特定の個人や意見を繰り返し批判する人々が多数派を形成すると、その「批判」自体が「当たり前の行為」として正常化していくことがあります。

そして、共に相手を叩くことに喜びを感じるような風潮すら見受けられます。

本来、人は皆、自分の意見を自由に発信する権利を持っています。
自分とは異なる意見に対しても、「こういう意見もあるのだな」と受け入れたり、あるいは単に無視したりすることも可能です。

しかし、気に入らないからという理由だけで、すぐに批判の矛先を向ける。
私には共感しがたい行為ですが、残念ながら今や、この風潮が「正常」となってしまっているのです。

もちろん、発信者側の文章が他者を不快にさせることもあるでしょう。
しかし、それ以上に、人が人を認めず、自分と違うものをすぐに排除しようとする態度は、人間の根源的な本質かもしれませんが、これらは子どもたちも見ています。

生まれた時からスマートフォンやインターネットが当たり前にある今の世代の子どもたちは、その世界に強く影響を受け、やがてこうした行為を模倣する可能性も否定できません。

テクノロジーの進歩に、私たちの倫理観や社会的感覚が追いついていないのが現状です。
その結果、本来「異常」であるはずの行動が蔓延し、「正常な感覚を培う間もなく異常が正常化する」という社会現象が起きているのではないでしょうか。

3.崇高な理想も霞む「異常な集団」の圧力

別の例を挙げましょう。
崇高な理念を抱いて政治家になった若者が、20年後には自分の権利を振りかざし、権力にしがみつき、さらには汚職に手を染めるようなことは、残念ながら珍しいことではありません。

どれほど崇高な理想を抱いていても、属する集団によっては、その理想自体がどうでもよくなってしまうことがあります。
自身の利権や出世が優先される世界では、純粋な理想は「異質なもの」として排除されてしまうこともあるでしょう。

このような状況に直面した時、私たちはいくつかの選択肢を迫られます。

a)異常を受け入れ、それが「正常」だと認識を変える
これはまさに「異常の正常化」に他なりません。

b)集団の中で、自身の正しき理想を貫こうとする
多くの場合、その異質性ゆえに排除される可能性が高いでしょう。

c)その集団を離れ、自己の理想を中心とした新たな集団を立ち上げる
現在のSNSなどの発信力を活用すれば、これも不可能ではありません。

d)理想は幻想だったと悟り、幻滅し、理想を心に封じ込める
これは最も悲しい結末かもしれません。

私たちが属する様々な社会や集団の中で、こうした「異常の正常化」は、至るところで起きているのではないでしょうか。

私たち一人ひとりが、人間として、どのような意識を持って社会に存在するか。
少なくとも、日々の生活の中で「これはおかしい」と感じることを、「正常」だと受け入れている人々と、いかに向き合っていくか。
その中で、私たち一人ひとりの良識が問われています。

人は、決して一人では行わないような行為でも、それが集団になると、集団に属する無責任さや高揚感(集団過大症候群)によって、つい行ってしまうことがあります。
人間には、そのような弱さも存在するのです。

だからこそ、私たちは「自分とは何か」を常に問いかけ、自身の行動を振り返り、反省すべき点は反省し、良かったことは継続していくべきでしょう。

私たち一人ひとりの「生き方と在り方」が社会に影響を与え、真に健全な社会を築いていくのだと、私は信じています。

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