憎しみと正義

納得出来ない、扱い、振る舞い(言語、態度等によるいじめ、差別的な態度)を、周囲の人、他者や社会から受けた時、人はどのような気持ちになるでしょうか?

(扱いとは、あまり良い表現ではないのですが、他に言葉が浮かばなかったので、扱いという言葉を使わせて頂きます)。

Index
1.理不尽な他者行為から悲しみが生じる
2.悲しみから自分を理不尽に扱う他者社会への怒りへ
3.悲しみから怒りそして正義へ

1.理不尽な他者行為から悲しみが生じる

最初は、どうして、自分だけが、このような扱いを受けるのか?
どうして人は自分のいじめるのか?
なぜ、こんなにも理不尽な目に合うのだろう?
自分の何に問題があるのだろうか?
どうして、自分だけと、自分自身に疑問を抱くと思います。
そして、同時になぜ自分がと、悲しみの気持ちも生じると思います。

そして、ますます、日々、酷い態度で、人から接しられ続けると、悲しみの感情は強くなっていくでしょう。

自分だけ、なぜ?
自分の存在が悪いのか、自分が生きていることが罪なのか?

悲しみの気持ちを抱きながら、さらに、自分を問いはじめるかもしれません。
しかし、その答えは、やがて、自分に問題があるのではなく、自分をいじめる、差別的な態度で接する、周囲の人間、他者、社会に問題があると、思いはじめることもあります。

2.悲しみから自分を理不尽に扱う他者社会への怒りへ

その思いがやがては、周囲の人、他者、社会を、敵とみなしていくかもしれません。

自分に問題があるのではなく、理由も分からない、理不尽な扱いを受けるのは、他者や社会の問題であり、自分は被害者であると、こう考えるかもしれません。

悲しみは怒りに変わります。
怒りと同時に、憎しみの気持ちも芽生えるでしょう。

やがては、自分を苦しめる、加害者は叩き潰さなければならない、そうしないと、自分が潰される。
極端な思い込みを抱くかもしれません。

3.悲しみから怒りそして正義へ

そして、この状態においては、言葉が変わり、間違っている他者、社会は正さなければならない。
これは正義だ。
正義は遂行されなければならない。

彼が周囲から受けた、差別的な扱い等から生じた悲しみは、周囲に対する、社会に対する、怒りと憎しみに変わり、正義の名のもと、自分を害する、間違ってる周囲、社会に一撃を加え、自分が受け続けた傷、相応に見合う、打撃を与えようと考えるかもしれません。

正義を遂行する。

しかし、他者や社会に対する攻撃は、本当に正義なのでしょうか?

正義という名を借りた、報復ではないでしょうか?

さて、ここまで書いて、私が思うことです。

ストレス不寛容な社会におけるいじめ等より怒りと正義と報復

今の社会は、人に対する思いやり、共感が、年々、変わりつつあります。
これは、良い意味では書いているのではありません。

社会そのものが疲弊して、他者な対する寛容性が失われつつあるのかもしれません。
また、自分が生きるのに精一杯、しかし、努力しても、苦労しても、報われることは少なく、そのストレスから、誰かを攻撃したい、いじめたい、それにより、自分自身が社会から受けているストレスとの、心のバランスを取ろうとするのかもしれません。

そして、誰か特定の人をいじめ、差別的に接することによって、自分の心の問題、自身の不満を解消しよとするのかもしれません。
また、誰かを集団でいじめることが、集団の目的となり、つながり、連帯心強化にもつながることもあるでしょう。

でも、いじめられた側の人、差別的扱い、侮蔑的に態度で接し続けられた人は、いずれ、怒りと憎しみより、報復と復讐の気持ちが高まり、その気持ちの目的遂行を正義と称し、社会そのものに対して、打撃を与えるかもしれません。
(もちろん、その前に自分自身、絶望から自ら社会から消えてしまうかもしれませんが)。

私はこのような、ことが起こらない、平和な社会であって欲しいと思います。

1人、1人が思いやりを持って、共感して、親切な社会をつくりましょう等と書く気はありません。

今更、時代の逆光は不可能です。

でも、人の各々の人権を尊重する社会であって欲しいと思います。
人権は1人1人が持っている権利です。
人権を踏みにじむ行為は、許されるものではないと考えます。

そして、間違っても、悲しみから怒りと憎しみを糧に、正義をふりかざさないことです。
これは、報復、復讐です。

これを遂行すると、反社会的行為者として法の基、まさに、国家権力に基づく社会的正義の前に裁かれるでしょう。
末路は悲惨です。

他者からの卑劣、ひどい扱いを受け続けた、心の悲しみとダメージは計り知れず、立ち直ることさえ難しいかもしれません。

それでも、良識、良心を持ち生きている人も、まだまだ、たくさんおられると思います。

悲しみと怒りから正義を振りかざす前に自分を理解支援してくれる人を探しましょう

人なんか信用出来ないと言われるかもしれません。
そうかもしれませんが・・・。
でも、信用、信頼出来る人がいることは確かです。

悲しみの心を抱きながらも、人としての誠実さ、正直さえ失わない限り、きっと、波長の合う、理解してくれる、応援してくれる、誰かと出会えると私は信じます。

そのためには、自分自身が主体性を持ち、そのような人を、探す、動く、努力が必要となります。
動かずに考えてばかりいると、怒りと憎しみが脳内に溢れ、後戻り出来ない状態になってしまうかもしれません。

何か自分に対する異変を感じたら、すぐに、理解、応援してくれる誰か、組織を探しましょう。
それは、心理カウンセラーでもいいでしょう。

心の傷はすぐには癒せないかもしれません。
でも、まっすぐな気持ちがあれば、良き人との縁を頂くことも出来ると思います。

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