MENU

人生の悩み|漠然とした憂鬱、虚しさの感覚『生きる意味とは』

私たちは生きることにおいて様々な悩みを抱えます。

その悩みとは

・理由なき憂鬱・感覚的な負の感情に囚われる悩み
・生きる意味の悩み
・人間関係の悩み
・親子関係の悩み
・仕事の悩み
・お金に関する悩み
・健康に対する悩み
等々、人生における悩みは様々です。

本ページでは、人生の悩みについて、「漠然とした憂鬱・虚しさの感覚」、「生きる意味の悩み」をメインに、人生の悩みとして書かせて頂きます。

人生の悩みについて

Index

1.漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み
2.生きる意味の悩み:私たちが人生を問うのではない
3.人は皆哲学者である

1.漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み

私たちは生きることに対して、漠然とした、「虚しさ」、「虚無感」、「生きる意味が分からない」、「自己価値の希薄」、「希望がない」、「生きることへの違和感、嫌悪感、罪悪感」、「無意味感」等、「憂鬱」な負の感覚に、理由なく支配され悩み続ける時があります。

そして、これら漠然とした生きる悩み、人生の悩みを抱えて、心理カウンセリングを受ける方は案外多いものです。

本ページでは、これらを、「漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み」と表現しております。

さて、「漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み」についてですが、この悩みは漫然とした感覚的な悩みの要素が強く、思考レベルで明確に悩みの本質を意識している悩みではありません。

しかし、この状態に至る以前には、具体的な悩みの原因が存在していたのではないでしょうか。
ある特定の事柄に対して抱いていた明確な問題意識が、考えすぎや時間の経過とともに、思考や意識のレベルから遠ざかってしまった。

その結果、慢性的な感覚としての「負の感情」や「生きることに対する漠然とした憂鬱」へと発展した可能性は十分に考えられます。

特に、以下のような、「答えが出ない」、問いを抱え悩み続けることが、この感覚的な悩みを深める要因となるように思います。

自分はなぜ生きているのか?
自分の生きる意味は何か?
社会において自分の価値は何か?

これらの、考えてもすぐに答えが出ないような問いで悩み続けることが、漫然とした憂鬱や虚しさへと進展し、感覚的な悩みに覆われる状態を生み出すのではないでしょうか。

「漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み」。

解決に向けてどうすれば良いのでしょうか。

得体の知れない漠然とした憂鬱な感覚に、思考をぶつけても、解決には結びつかないでしょう。

まずは、憂鬱な感覚に支配されている自分を、希望を持ち生きたいと思う方へ、変えることが重要と考えます。

しかし、悩み過ぎた結果における、感覚的な負の感情に囚われ続ける悩み、その悩みを一瞬で解決する有効策を考えても、答えは出てきません。

したがって、重要なことは、気分を変える為、感覚を変える為に外に出ることです。

外に出て今までとは違うことを行い、感覚を変えることです。

脳内にて、常に憂鬱、虚しい等の感覚的な負の感情に囚われ続けることは、負の感覚的な悩みの堂々巡りより、生きることへの閉塞感を感じ続けることにつながり、生命力にも悪影響を与え、さらに、生きることに対する憂鬱感、虚しさの感覚的な悩みを強化させます。

漠然とした憂鬱、虚しい感覚的な負の感情に囚われ続ける悩みの解決のためには、外に出て、新しい刺激を感じ、新鮮な感覚を感じることが大切です。

外からの刺激、聴覚、視覚、臭覚、肌感覚から入ってくる感覚は、日々感じている憂鬱、虚しさや、無感覚に対して、感覚の機能改善をもたらし、気分転換が図れるのではないでしょうか。

この、気分転換は大変重要です。

なぜなら、気分転換により、憂鬱な感覚的な負の感情に囚われる悩み、その憂鬱の中核的感覚が刺激され、問題となっている憂鬱な感覚が一瞬であるかもしれませんが変わる可能性があるからです。

人間、同時に2つの感覚を感じることは不可能なものです。

結果として、新鮮な感覚を感じるということは、生きていることに対する漠然とした憂鬱、虚しさの感覚を、一時的にせよ感じない、忘れることにもつながるでしょう。

漠然とした憂鬱な感覚的な負の感情に囚われる悩みにおいては、外から他の感覚を味わい、それらを体内・脳内に取り入れ、悩み過ぎて閉塞した感覚(心)の回復を図ることが重要です。

その為には、外に出て、外の気を味わい、体を動かし(体内の活性化・脳内の活性化を図り)、そして、軽くて良いのですが、他者とのコミュニケーションを図り、様々な刺激から感覚を活性化、感覚を変えていくのです。

「虚しさ」、「虚無感」、「憂鬱」等はすぐには変わらないかもしれませんが、改善へのステップになると思います。

そして、憂鬱の基が、「自己価値の希薄」、「生きる意味が分からない」等の悩みの場合、やはり、他者とのコミュニケーション、人間関係を通じて、何らかの生きる意味を見出せる可能性はあります。

保証は出来ません。

でも、「漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み」に対しては、新たな刺激という感覚を感じることにより、思考の活性化も図れ、人生の目標、生きる意味もみつかり、「生きたい」という欲や希望も生まれるのではないでしょうか。

いずれにせよ、漠然とした感覚的な憂鬱や虚しさの悩みからの改善に対しては、考えても答えは出ず、ますます、悩みが深まるばかり。

生きることに対する、「憂鬱や虚しさ・負の感情に囚われる悩み」に対しては、外からの他の刺激より感覚を活性化、同時に体内エネルギーの循環、思考の活性化、他者とのつながり、そのなかから、生きることに対する希望等を見出し、その実現に向けて歩み続けていくことが一番と考えます。

「漠然とした憂鬱、虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み」対しては、考えて状況、事態は改善されないでしょう。

新たな刺激を得ること、感覚の活性化を図ることを始めることが、改善へと向かうのではないでしょうか。

2.生きる意味の悩み:私たちが人生を問うのではない

理由なき憂鬱、虚しさ、感覚的な負の感情に囚われる悩みで、悩み続けておられる方のなかには、人生とは何か?

人生そのものに対する答えを求められておられる方もいらっしゃると思います。

心理学者、ヴィクートル・フランクは以下の名言を残しています。

「われわれが人生を問うのではない、人生の方から、われわれに問いかけてくるのだ」。

すなわち、人生とは問うものではなく、人生の方から問いかけてくる。

その、人生からの問いかけに、いかに応えるかが、人生である。

さて、私たちは常に選択と行動という権利を持っています。

そして、権利には責任が伴います。

人生からの問いかけに応えることは、選択と行動と責任によって明らかにされるのではないでしょうか。

例えば、何らかの選択肢が迫ってきた時。

いかなる選択をするか。

この選択には積極的に行動することを選択することもあれば、何もしないことを選択することも含まれます。

そして、選択したことに責任を持つ、これが人生からの問いかけに応えることではないでしょうか。

すなわち、

何かを積極的に行動することを選択した場合、いかに、選択したことを行動化に移し、選択に対する責任を果たすのか。

また、何もしないことを選択した場合は、果たす責任はないかもしれませんが、何もしないことを続けた場合、現状を変えることが出来ず、時の経過とともに、いずれは窮地に陥り、いかにして、この状況を改善、解決するのか。

その為に、何を選択するか、

人生からの方から問いかけが再びやってくるでしょう。

人生とは、人生からの問いかけに対して

いかなる選択を行い、行動化に移し、その責任を果たすのか。

これが、人生からの問に応えることであり、「生きる意味」ではないでしょうか。

人生とは、選択と行動と責任の連続体ではないでしょうか。

したがって、人生とは何か、生きる意味とは何か、考えても答えは出てこないかもしれません。

3.人は皆哲学者である

私は、人とは皆、「哲学者」であると考えています。

私の考える哲学者とは、人生における「生き方、在り方」を自分で考える者を示しています。

そして、その「生き方と在り方」の考え、すなわち、思考レベルにおける、自分自身に対する理想が高ければ、理想と自分自身の状況立場とのギャップより、自分を責め、生き辛さを感じ、それが生きることへの悩み、人生の悩みへと発展することもあるでしょう。

この、人生の悩みは、理想と自分とのギャップから、自己無価値観、意味のない自分等の感覚を強め、やがては、「漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み」に発展することもあります。

「漠然とした憂鬱と虚しさ・感覚的な負の感情に囚われる悩み」に発展する前に、自分の思考に基づく理想が自分を苦しめていることに気付き、自分に対する理想を一旦は下げ、自分を認めることの大切さ、自己受容の感覚を高めることは、人生の悩みからの脱却につながります。

人は皆、哲学者である。

そして、自己哲学は柔軟に変更が可能なものであるという認識は重要です。

具体的には、理想、あるべき論、生き方と在り方等の変更です。

なぜなら、人生における経験と時間の経過は、私たちの思考、認知、そして自己哲学を絶えず変化させます。
世界と社会に適応する中で、私たちは自己を再構築し続けるのです。

そして、同時に年を重ねる都度、新たな悩みや問題が生じ、人生に対する悩みも変わっていくのです。

そう、私たちは永遠に悩み続けるのかもしれません。

それこそが、私たちは哲学者であり、悩み考え続ける存在の証なのです。