MENU

見えない私と、見られている私:社会における良識と責任

私たちは皆、名前を持っています。その意味では「無名の人」は存在しません。

しかし、私たちが「無名」になる瞬間、それは、誰も自分のことを知らない状況にいる時です。

有名無名を問わず:良識に基づく責任の大切さ

Index
1.「無名の私」と「有名な私」:その境界線
2.他者の視線が変える行動:意識の有無がもたらす違い
3.「無名の私」だからこそ問われる良識と責任
4.有名無名を問わず:良識に基づいて行動する責任について

1.「無名の私」と「有名な私」:その境界線

私たちが「無名」でいる時間は、意外と多いものです
。例えば、一人で部屋にいる時、見慣れない街を歩いている時、通勤ラッシュの電車の中にいる時。

たとえ周囲に多くの人がいても、誰も自分のことを知らなければ、それは「無名の私」として存在している状態です。

しかし、道で知り合いに会った瞬間、あるいは職場に足を踏み入れた途端、
私たちは「有名な私」へと変わります。

大勢の中にいた「無名の私」が、職場に足を踏みいれた瞬間、多くの人に認識されている「有名な私」になるのです。
このように、私たちは状況に応じて「無名の私」と「有名な私」を使い分けて生活しています。

2.他者の視線が変える行動:意識の有無がもたらす違い

では、「無名の私」と「有名な私」の一番の違いは何でしょうか? それは、他者の視線を意識するか否か、という点にあります。

「無名の私」は、その存在を誰にも知られていません。
そのため、行動は比較的自由であり、他者の視線や評価を気にする必要がないと感じやすいものです。

例えば、エレベーターでの振る舞いを考えてみましょう。
「無名の私」であれば、開閉ボタンが側にあっても、特に操作せず乗っているかもしれません。
誰にも見られていないという意識が、行動の選択肢を広げます。

しかし、これが職場のエレベーターで「有名な私」として乗っている状況だったらどうでしょう?

おそらく、開閉ボタンの側にいれば、操作をするはずです。
そこには、同僚や部下、上司といった「私を知る人」の視線があり、社会的に好まれる振る舞いを意識するからです。

このように、人は「有名な私」として振る舞う時、無意識のうちに他者の評価を気遣う傾向があります。

3.「無名の私」だからこそ問われる良識と責任

ここで「良識」という言葉を考えてみましょう。
「良識」とは、社会生活を送る上で求められる、健全な判断力を指します。

私たちは「有名な私」である時、多くの場合、良識に基づいて行動するでしょう。
社会的な立場や他者の視線を意識することで、健全な社会生活を送るための判断力を発揮します。

もちろん、高い良識を持ち、有名無名を問わず常に秩序やマナーを守って生活されている方も多くいらっしゃいます。

しかし、人によっては「無名の私」である時、途端に不健全な行動を取ってしまうことがあります。そ

の典型的な例が、タバコのポイ捨てかもしれません。
「有名な私」であれば、他者の視線を意識してポイ捨てはしないでしょうが、「無名の私」になった途端、平気でポイ捨てをしてしまう人がいるのではないでしょうか。

「無名の私」は、誰にも知られていないため、自由に行動できると感じます。

他者の視線を意識する必要がない、他者の評価を気にする必要がない、といった理由から、良識を持っているにもかかわらず、それを封印して自分勝手な行動に走ってしまうのです。

しかし、これは本当に「良識ある行動」、「良識」を培った人と言えるでしょうか?

培ってきた良識をある場所では使い、ある場所では使わないのは、良識を持った人、良識力のある人とは言えません。

それは単に、自分勝手で無責任な行動です。「誰も見ていないから何をしてもいい」という考えは、社会生活を送る上での責任を放棄しているに等しいのです。

4.有名無名を問わず:良識に基づいて行動する責任について

私たちは、有名であろうと無名であろうと、常に良識を発揮し、健全な社会生活を送る責任があります。

なぜなら、たとえ一人でも「無名の私」として不健全な行動を取れば、それが「誰も見ていないから大丈夫」という誤った認識を広げ、結果として多くの人が同様の無責任な行動を取ることに繋がりかねないからです。

良識を発揮せず、マナー違反の行動を取ることは、周囲や誰かに迷惑をかける行為です。
私たちは常に自己を律し、たとえ見られていない場所であっても、社会の一員としての責任を果たす必要があります。

さらに、「無名の私」という状況を盾に良識を封印し、社会のルールに反する行為をすることは、傲慢であるとさえ言えるでしょう。

なぜなら、その行為の後始末を、誰かが行い、社会の秩序や美しさを守っているからです。
あなたの無責任な行動が、誰かの手によって整えられているにもかかわらず、あなたには、それを他者に強いる権利も力もありません。

それは、ただただ無責任な行為であり、その無責任はやがて傲慢な振る舞いへと姿を変えていくのです。

読者の皆さんは、ご自身の「無名の私」とどのように向き合っていますか?

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!