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傲慢の理由・人は自分の体験に基づき自己中心的な判断を下す

傲慢。

この言葉は人の本質であるように思います。
なぜ、人は傲慢になるのか。

目次

人が傲慢になる心理と理由

1.人は自己の経験を中心として物事を判断。したがって、自己中心的な生き物である

人は自己の経験をしてきたことから、様々なことを学び、成長、自己を形成、確立。
自己の経験により物事の判断基準を培い。
自分なりの思考、価値観、アイディンティティを確立していきます。

したがって、自分を中心とした、思考、フィルターを通して、物事を判断、人を判断するのです。

これが、自己中心性です。

自己中心性とは、自分を中心として物事を判断、人を判断するのですから、この自己中心性が行き過ぎると、問題が生じます。

それは、あまりにも自己中心性に基づく、判断、振る舞いが過ぎると、何事においても、自分が中心となるので、結果として、強い自己優越を感じたり、他者を軽視、自分勝手な行動等、行き過ぎた自己中心性の結果、傲慢になってしまうのです。

でも、人が自己中心性であることは、当然のことです。
経験が人を創るのですから。

自分が生きてきた歴史を通して、人は「自分」とは何者であるかを認識するのです。
しかし、「自分」に対する行き過ぎた、自己中心性に基づく、思考、行為等が、傲慢に走らせるのです。

(但し、人とは自己中心性を基としていますが、客観性、おもいやり、親切心、良心、自己制御力、謙虚さ等も、社会生活上学び、自己中心的に物事を捉えたとしても、これらの他の能力との均衡、バランスにより、自己中心性を抑え、己を慎むことも出来ます)。

2.自己承認欲求に基づく他者からの承認評価により傲慢となる

人は他者より自分を認めて欲しいと思い、生きるものです。
これが、自己承認欲求です。

おそらく、社会や組織から、自分が認めてもらっていないと感じると、人は惨めさ、虚しさを感じたり、うつ傾向にさえなるのではないでしょうか。

承認欲求は誰にでもあり、自分が認めてもらう事とは、自分とは何者であるのか、アイディンティティの形成とも強く結びついています。

人にとって、アイディンティティとは大切なものであり、もし、アイディンティティ、すなわち、自分が何者であるかの感覚の獲得に失敗すると、そこには、希薄な自分しか感じられない、虚無の世界が展開されるのではないでしょうか。

私は子供時から社会人に至るまで、人生経験が少なく、人とのつながりがほとんどなかったので、この当時は、自己承認欲求も満たされることがなく、自分とは何者であるか、アイディンティティの獲得に失敗しており。
その当時の虚しさ、虚無の感覚は、今でも感覚の記憶として残っています。

そして、このアイディンティティとは、人生経験と、他者からの承認、もしくは、評価を得ることによって、満たされるのです。

さて、人が自己承認欲求を満たそうと、様々な行い、努力を重ねることは健全であると考えます。

しかし、努力の結果、ひとたび成功、もしくは苦難を克服すると(物事が自分の想い通りに動きだすと)、人によっては、自己の勝手な自身に対する過大評価より、自己承認欲求を超えた、強度の自己顕示欲が働きだし、何でも自分、「私」、「俺様」、「私は」、「俺の言う通りにしておけ」等、絶対的な自分を主とした、万能感や優越感を持つことにつながり、それが、傲慢化を進めることになります。

いや、それ以上に、傲慢になり果てる。

さらに、傲慢化した人は、その思い上がりから、他者を批判、見下しはじめます。
そして、人を支配したがります。

私は人とは何をしても、自由であると考えていますが、人を批判、見下す等の傲慢行為により、人の心を傷つける言動、態度には賛成出来ません。

行き過ぎた、自己承認欲求(自己顕示欲)は、その行為を重ねる程、ますます傲慢化の加速につながるので、注意が必要です。

でも、やがてその人は、自分勝手な傲慢に基づく、勝手な権威を振り回したつけとして、人の心を傷つけた相応の報いとして、嫌われていくでしょう。

努力を重ねて成功すること、苦難を乗り越えることは、とても立派なことだと思います。
そのことについて過大評価しても構いませんが、傲慢には注意が必要です。

自分が自分のことをいかに評価するかは、その人の自由です。
それが過大評価であったとしても。

重要なことは、傲慢、偉そうな物言い、態度を取らないことです。
傲慢を自己の中に封印することです。

冒頭に書きましたが、基本的に人とは自己中心性の生き物。
傲慢という色に染まるのも、やむを得ないことかもしれません。
だからこそ、常に自己を戒める努力も必要ではないでしょうか。

3.自己と他者との比較の心理

人とは、自分と他者を比較する傾向があります。
そして、都度、優越感に浸ったり、落ち込んでみたりと、本当は、自分は自分でいいのですが・・・。

しかし、私たちは幼児期より社会生活をする中で、常に比較され、評価される一面があります。
成績、評価において優劣を競う、それにより経済力、社会的立場まで決まってしまうことがあります。

私たちは子供の頃より、学校という小さな競争社会の中で生きており、その中で常に優劣を競わされているのです。

競わされているというより、競うように仕向けられていると、表現した方がいいかもしれません。

子供時から競わされ、評価される事を強いられるということは、優劣におれる比較が習慣となり、やがては無意識において、私たち自身が、何事においても、自分と他者の比較を行うように、脳内で比較癖を強化し続けているのかもしれません。

さて、比較については別の見方もあります。

それは、私たちが自分自身を知るためには、常に他者を必要としている事実です。
人とは他者を鏡として、自分を知ります。
これは、あらゆる側面においてのことです。

しかし、他者を鏡として自分を知るということは、この事実は言葉を変えると、他者との比較において自分を知るとなるのです。

したがって、私たちは、自分を知るために他者との比較を行い、社会生活上においても、比較されることが多く、「自分と他者を比較する」ことは、避け難いことなのかもしれません。

さて、この事実を受け入れたとしても、問題は比較した結果に、こだわり続けてしまうことにあります。

他者と比較した結果、自分を変えるために奮起、努力することは良いことだと思いますが、無理は禁物。
また、いちいち他者との比較において自分の短所と思われることに、劣等感を抱き、こだわっていてはきりがありません。

また、比較した結果、優越感に浸り続け、他者を軽視することも感心出来ません。

この世には、変えられるものと、変えられないものが在ることを認識することも大切でしょう。

比較における私の結論は、比較とは人の心理として当然に在るものですが、優劣のみにこだわることなく、自分は自分でOKなのです。

再度書くことになりますが、比較した結果、努力することは大切ですが、優れた自分になろうと、過大評価、賛辞を求めることにこだわり続けないことです。

さらに、比較した結果、優越を得ることは、他者を下とみる心理も働き、自己中心性を基盤とする、傲慢を助長します。

比較の社会に生き、自分を知るためには他者との比較が必要であり、しかし、優越感や劣等感を持たず、自分は自分で良いという、この文章は矛盾に満ちています。
(そもそも、人、人生、社会は矛盾に満ちています。矛盾の中において、私たちは生きているのです。その中において、いかにバランス良く在るか、これが重要でしょう)。

しかし、劣等感から得るものは少なく、優越感に浸り過ぎると、傲慢になる。

自己中心性、承認欲求、比較、これらは傲慢を強めると同時に、劣等感を持つことにもつながります。

様々な感情が交錯するでしょうが、何事もほどとぼに。

人生において大切なことは何か?
今一度、振り返り、考えてもいいのではないでしょうか。
特に、自分自身について、対人関係において、人に接する態度において等。

この結論は、人各々が持っていると思います。

私に書けることはここまで、但し、傲慢には注意。

あまりにも、傲慢になると、人間関係の破綻を招き、自分自身の破綻を招くことにつながることもあります。

少し、散漫な長文であったかもしれません。
お読み頂き、ありがとうございました。

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