生存:私たちと刺激
私たちは、何のために生まれ、何のために生きているのでしょうか?
私の答えはシンプルです。
「生きるため」。
すなわち、生存そのものです。
しかし、ただ生き抜くということは、案外難しいものです。

住む場所や食料を確保すること。 そして人は一人では生きられないからこそ、集団の中でうまくやっていく「適応力」が求められます。 生きるためには、物理的な生活基盤だけでなく、心理的でしなやかな「人間関係を築く力」が不可欠なのです。
そして、人間以外のすべての生物がごく自然に行っていること。
それが「子孫繁栄(種の保存)」です。
ですが、現代の私たちは、子どもを残すことや種の保存をそれほど重視しない傾向があります。
それは、一体なぜでしょうか?
住居費や教育費といった、現実的な金銭の問題もあるでしょう。
しかし、人間の進化の本質には、もうひとつの大きな要素があると感じています。
それは、「好奇心」や「刺激」を満たすことです。

もし刺激を求める欲求が消えてしまえば、人生はまるで干上がった砂漠のように乾ききってしまうかもしれません。
私たちは肥大化した大きな脳を持っています。 だからこそ、脳自体が絶えず刺激を求めて叫んでいるのではないでしょうか。 そして、その刺激が満たされたとき、脳内に快感が走り、私たちに「生きる活力」を与えてくれる——私はそう考えています。
刺激を満たす原動力となるのは、主に次の2つです。
「未知なるものを知りたい」という探求心。
そして、「立てた目標を成し遂げたい」という達成感。
もし私たちが「刺激を満たすこと」を生きる目的のひとつとしているのだとすれば、求める刺激のない人生は、途端に色を失ってしまいます。
そこに待ち受けているのが、「退屈」です。

ここでいう退屈とは、自ら追い求める刺激がなく、ただ生きてはいるものの「生きる意味や価値」を見失っている状態です。自分が今生きているという実感が、すーっと薄れていく感覚と言ってもいいかもしれません。
そして、この「退屈」という苦痛から逃れ、刺激を穴埋めしようとするとき、人は次の2つの行動に走りやすくなります。
a) ギャンブルや過剰な快楽によって、強烈な刺激を得ようとする
b) アルコールや依存物質を使って、退屈という感覚そのものを麻痺させる

しかし、こうした逃避行動は心身に大きな負荷をかけ、経済を圧迫し、時にはリスクを伴い、私たちが健全に生きる道を阻みます。ひとたび依存症の沼にはまってしまえば、そこから抜け出すのは容易ではありません。
ここで少し、2000年前の人々に思いを馳せてみましょう。 彼らは一体、何から刺激を得て生き premium な感覚(生きている実感)を得ていたのでしょうか?
穏やかな日々。 危険の少ない、安全な暮らし。 家族と囲む食卓。
それらは一見、派手な「刺激」とは呼べないかもしれません。 けれど彼らは、日々の安定と心のおだやかさに深く感謝しながら、一日一日を丁寧に重ねていたのではないでしょうか。
ひるがえって、現代の私たちはどうでしょうか。
テクノロジーは目まぐるしく進化し、情報は絶え間なく駆け巡り、日進月歩で「新しい刺激」が供給され続けています。
その終わりのない刺激を追い求めた果てに、私たちは一体、何を手にするのでしょうか?
目まぐるしい時代の波の中で、一度立ち止まり、静かに考え直してみてもいいのかもしれません。
