『創作物』あなたの生きてきた証とその想い
存在の証として何を残しますか?
私たちは皆、人生の終わりに際して、何を思い、何を残したいと願うのでしょうか?
自分が生きてきた証を残し、この世を去りたいと考える人もいれば、「一度きりの人生、悔いなく生きられればそれでいい」と、証を残すことにこだわらない人もいるでしょう。この問いに対する答えは、まさに人それぞれです。

Index
1.私の父と母、それぞれの「生きた証」
2.「残さない」という選択、そして「執着」という視点
3.「証」は人の心の中に生き続ける
4.残された創作物と、その意味
1.私の父と母、それぞれの「生きた証」
私の父と母は、この点において対照的な考え方を持っていました。
父は定年退職を迎える頃までギターが趣味でしたが、定年を機に絵を習い始めました。
私には、父がその絵を「自分が生きていた証」として残したかったのではないか、という推測があります。
まるで自分の分身のように、創作物に魂を吹き込み、この世に残したいと願ったのでしょう。
何かを創り出す経験がある方なら、ご自身の作品にまるで命が宿っているかのような感覚を抱くことがあるかもしれません。
父もまた、絵を描くことで「自分の分身」を創り出し、それを「生きた証」としたかったのではないでしょうか。
長年続けてきたギターを辞めてまで絵に没頭したのは、描いた絵を私たち子どもや親族に残し、自分がこの世を去った後も、絵を通して自分を思い出してほしいという強い思いがあったからだと感じています。

2.「残さない」という選択、そして「執着」という視点
一方、母は70代から「断捨離」に目覚め、自分が生きた証を残すことには全くこだわらないようでした。
もちろん、母には私という子どもがいますから、もしかしたら「自分が生んだ子どもこそが、自身の生きた証だ」と考えていたのかもしれません。
このように、「自分が生きた証」を創作物を通して残すか、残さないかは、個人の自由な選択です。しかし、私が「創作物を通して生きた証を残したい」という思いから推し量るのは、そこに「生への執着の強さ」が表れているのではないか、ということです。
もちろん、純粋に「創りたいから創る」、「楽しいからやる」という理由で創作活動をしている方も多くいらっしゃいます。
それに対し、「生きた証を残したい」という強い気持ちで創作に励む方は、「自分がこの世を去った後も、自分の存在を残したい」という心理が深く働いているのではないでしょうか。
それは、「自分は生きている、創作物を通して永遠に生きるのだ」という、ある種の「生への執着」と言えるかもしれません。あるいは、「自分がこの世に存在していたことを忘れないでほしい」という切なる願いも含まれているでしょう。
しかし、この「生への執着」が強いからといって、決して悪いことではありません。
むしろ、それによって創作活動を心から楽しみ、素晴らしい作品が生まれるのであれば、それこそが何よりの喜びでしょう。

3.「証」は人の心の中に生き続ける
「自分が生きた証」というものは、自分を思い出してくれる他者が存在して初めて成り立ちます。
特別何かを形に残そうとしなくても、ふとした瞬間に誰かが「あの人には、あんな親切にしてもらったな」、「あの人を思い出すと心が温まる」と感じてくれること。
そうやって記憶の中で思い出されることこそが、立派な「生きた証」となるのではないでしょうか。
そのためには、私たちが生前、どのように生きてきたか、他者とどう関わってきたか、社会とどう繋がってきたかが大きく影響します。
親切な行い、寛容な心、奉仕の精神は、それを受けた人の心に温かい記憶として残り、何かにつけてその人を思い出すきっかけとなります。
そうして、自然と「生きた証」を残すことに繋がっていくのです。
つまり、私たちの「生き方と在り方」そのものが、他者の記憶の中で生き続け、「思い出の人」として残ることも可能なのです。

4.残された創作物と、その意味
さて、父が描いたたくさんの絵は、大半を処分しましたが、私にとって特別な一枚があります。
私が飼っていた文鳥の絵は、今も額に入れて部屋に飾ってあります。
そして母については、15年ほど前、母自身が作った白い馬の刺繍をゴミ箱に捨てているのを見つけました。もったいないと感じた私はそれを拾い上げ、額に入れて部屋に飾っています。
皮肉にも、父と母、二人の生きた証とも言える創作物は、私の部屋で必然的に並んで飾られています。
形あるものとして残った創作物と、形には残らないけれど人の心に宿る記憶。
どちらもが、私たちの「生きた証」となり得るのだと、改めて感じさせられます。