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子どもの「純粋さ」がもたらす「未熟さ」と、時に「残酷さ」

「人は生まれながらに善か悪か?」という問いは、古くから議論されてきました。

子どもの姿を見て、「天使のようだ」と感じることもあれば、「悪魔のようだ」と思う瞬間もあるかもしれません。

私たちが「子ども」と聞いて思い浮かべるのは、概ね純粋な存在ではないでしょうか。

特に幼児期や小学校低学年頃の子どもたちは、その心が無垢で、濁りがないように見えます。
彼らは、他の子がいじめられているのを見れば「かわいそう」と感じ、友好的な子には自然と惹かれていきます。

これは、純粋な人間性に基づいた、ごく自然な感情の動きと言えるでしょう。

子どもの「未熟さ」と「純粋さ」、そして「残酷さ」の関係性

しかし、この「純粋さ」は、実は未熟さと表裏一体であると、私は考えています。

心の未熟さとは何でしょうか。
それは、純粋であるがゆえに、「見たままを、そのまま口にしてしまう」という側面として現れることがあります。

例えば、足が不自由な方の歩き方を見て、純粋な子どもは、悪気なく「変な歩き方」と言ってしまうかもしれません。

成熟した大人であれば、相手の心を傷つける可能性を考え、決して口にしない言葉です。
このとき、子どもは相手を傷つけようとしているわけではありません。
ただ、純粋に感じたことを、そのまま言葉にしているに過ぎないのです。

ここに、子どもの純粋さ未熟さ、そして残酷さが同居する姿が見えてきます。

純粋であるがゆえに、彼らは相手の気持ちを慮る(おもんばかる)という成熟した視点を持っていません。

もし、相手がその言葉で傷つくかもしれない、という想像力があれば、彼らはその言葉を選ばないでしょう。
しかし、その想像力や他者への配慮がまだ育っていないがゆえに、彼らの純粋な言葉は、意図せず相手を深く傷つけてしまうことがあるのです。

「子どもの心は優しい」とよく言われますが、その優しさは、まだ自己中心的な側面を強く持っています。

物事を客観的に捉え、他者の立場に立って考える能力は、まだ発達の途上にあります。
客観性が加わることで、初めて他者の気持ちを配慮できる成熟さを獲得したと言えるでしょう。
この成熟さを獲得していない、純粋(未熟)な心のままの状態は、時に無自覚な残酷さとなって現れるのです。

1.子どもの成長と人間関係の重要性

子どもの純粋さ、未熟さ、そして残酷さは、彼らが成長していく過程で、誰もが経験する道筋の一部です。

子どもが相手の立場に立って物事を考え、言葉を選び、行動できるようになるためには、様々な人との出会い、関係性の中で、喜びや悲しみ、葛藤といった多様な感情を経験し、そこから多くを学ぶ必要があります。

つまり、彼らが成熟さを獲得するには、それ相応の時間と、豊かな人間関係(他者との交流)が不可欠なのです。

親として、あるいは周りの大人として、子どもの純粋さを受け止めつつも、彼らが他者への配慮や共感性を育むための機会を、いかに提供していくかが問われます。

子どもたちが様々な人間関係の中で、多くの「気づき」を得て、心を豊かに成熟させていく過程を、温かく見守り、そして時には適切なサポートを提供していくこと。

それが、彼らがより良い人間関係を築き、社会の一員として成長していく上で、何よりも大切なことではないでしょうか。

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