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視線不安・視線恐怖:他者の視線に過剰に反応してしまう心理とは?

他者の視線が気になり、不安や恐怖を感じる「視線不安」や「視線恐怖」。
これは一体どのような心理状態なのでしょうか?
私の考えを交えながら、深く掘り下げていきたいと思います。

まず、その根底にあるのは「人から自分がどう思われているか」という意識ではないでしょうか。
さらに、「自分が人に不快な印象を与えていないか」という確認のために、相手の視線や反応に過敏になる傾向があるように思います。

私が考えるに、人が他者の視線を強く意識する空間や場面は、主に以下の2つに分けられます。

他者から見られていることを過剰に意識する心理と、それが引き起こす問題

Index
1.自分が属している閉鎖的な空間(例えば、学級、職場)における視線不安
2.オープンな公共の空間、場(例えば車内、道等)における視線不安

1.自分が所属する閉鎖的な空間(学校、職場など)における視線不安

学校のクラスや職場など、自分が所属する場所には、必ずあなたのことを知っている人たちがいます。
このような環境では、自分の存在が見られ、観察されていると感じるのは当然かもしれません。

私自身、子どもの頃は心理的な引きこもりで、クラスで一人でいることがほとんどでした。
休み時間には寝たふりをしたり、本を読んだりして、「人からどう思われているか」という感情を振り払っていたように思います。

元々少し変わった子どもだったので、「人は人、自分は自分」と割り切ってなんとか過ごせましたが、現代の学校における「いじめ」の問題を考えると、その状況はより複雑です。

閉鎖的な空間であるクラスで一人でいると、「暗い」、「変な奴」などと思われたり、悪口を言われているのではないかと、同級生の視線に敏感になり、不安や恐怖を感じるのも無理はありません。

実際に、一人でいる子どもが悪口の対象になる可能性は高く(最近ではSNSなどで「ハブる」といった表現もされます)、それがさらに視線への敏感さを助長します。

そのため、無理に明るく振る舞ったり、強引なキャラクターに変わろうと試みる人もいます。
しかし、本来の自分ではない無理な性格を演じようとすれば、結局うまくいかず、精神的に疲弊してしまいます。
このように、同じ空間にいる人からの視線に対する不安や恐怖は、十分に共感・理解できる心理です。

人は「他者から悪く思われたくない」という気持ちが強いものです。
その背景には、悪く思われた結果が周囲からのいじめや嫌がらせにつながり、心の傷となることへの恐れがあります。

その傷が、さらに他者にどう思われているか、どう見られているかを過剰に意識させ、ストレスや心理的疲労、対人不安を引き起こし、結果として引きこもりや不登校につながることも考えられます。

大人になっても、同じ職場の同僚からどう思われているか、どのように見られているかといった視線不安や恐怖を感じることは少なくありません。
もちろん、大人の視線不安・恐怖の原体験が子どもの頃の経験の継続である場合も多々あります。

例えば、職場で仕事のミスをしてしまい、上司から皆が見ている前で厳しく叱責されたとします。
その人はその後、どのような心理状態に陥るでしょうか。

人によっては「気にしない」という方もいますが、育ってきた環境による性格特性によっては、「自分がどう思われているか」という意識が強まり、自己の存在価値が揺らぎます。
職場という閉鎖的な空間で、いつも一緒にいる上司や同僚、部下の視線(自分に対する思い)が気になってしまうのも無理はありません。

上司に怒られた恐怖、叱責を我慢し続けたストレス、萎縮した気持ちが続くことで、職場内の人たちの視線を過剰に意識し、視線不安・視線恐怖が高まることは十分に起こり得ます。

このように、大人でもその人の性格特性や、ある出来事をきっかけに視線不安・視線恐怖に陥ってしまうことがあるのです。
この場合、「今日のことは今日のこと、明日から頑張ろう」と気持ちの切り替えが早ければ問題はありませんが、もし上司の叱責をその後もずっと気にし続けてしまうと、周囲から自分がどう思われているかという不安が日々強くなり、やがては出社不能や退職にまで追い込まれる可能性も考えられます。

2.オープンな公共の空間、場(電車内、道等)における視線不安

私には経験がありませんが、道を歩く時や電車内など、公共の場所で他者から見られているのではないかと過剰に意識し、心理的な苦痛を感じている方も多くいらっしゃると思います。

おそらく、周囲の人たちから自分がどう思われているか、あるいは自分の存在が周囲の人に不快な気分を与えていないかなど、気にしすぎているのでしょう。

「考えすぎ」、「過敏に反応しすぎ」と思うかもしれませんが、実は私も電車に乗っている時など、まったく知らない他者に見られていることを意識することがあります。

そう、私は確実に見られているのです。

しかし、その一方で、私自身も電車に乗車中、他者を見ていることがあります。その理由は大きく2つです。

a) 何気なく、無意識に見ている。

b)その人の何かが気になって見ている。

「その人の何かが気になって見ている」と書きましたが、これは決してその人に対して不快感があるわけではありません。

その人の持ち物など、特定の何かに興味を持ち、「何だろう?」という単純な興味本位で、少しぼんやりと見ているだけなのです。
誰でも経験があるのではないでしょうか。

しかし、人は不思議なもので、見られていると直感で感じてしまうものです。
そして、その相手に視線を移し、今度は自分が相手を見ると、相手は視線をそらすでしょう。
こちらが見返しているにもかかわらず、ずっと見続けている人は、そう多くありません。

したがって、公共の場などで見られているかどうかなど、気にする必要はないのです。
相手は、ただ何気なく、暇だからぼんやりと視線を移しているだけなのです。

それを「相手にどう思われているか」、「不快な気分にさせているのではないか」などと気にしても、疲れるだけです。
そのような気持ちは、放っておきましょう。

また、見知らぬ人からの視線に不安や恐怖を感じる方は、それを感じさせた相手の顔や目を凝視したり、見続けてしまう行動を取ることがあります。
おそらく、相手の視線を気にしすぎた結果、無意識にそうしてしまうのでしょう。

「目は口ほどに物を言う」という言葉があるように、誰でも知らない相手から数秒間、顔を覗き込まれたり、じっと視線を合わせ続けられたりすると、不安や嫌な気持ちになり、それが怒りの感情に転化することもあります。

結果として、見続ける相手が怒りの表情や視線を向けてくることにつながり、「相手を怒らせた」、「不快な気持ちにさせた」といった現実を生み出してしまうのです。

乗り物の中や道、その他の公共の場において、相手はさほど意識を持ってあなたを見ているわけではありません。

それを意識的に見返す必要はありません。
放っておきましょう。
見知らぬ人の視線とは、その程度のものなのですから。

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