推し活がもたらす心の豊かさと、潜むリスクを考える
推し活がもたらす心の効果
近年、「推し活」という言葉をよく耳にするようになりました。
好きな俳優やアーティスト、あるいは水商売のホストなどの活動を応援することで、自分自身が元気づけられ、ハッピーな気持ちになれるという心理的な効果をもたらします。

考えてみれば、「推し活」は昔から存在していたように思えます。
たとえば、親が子どもの成長を応援することも、まさに「推し活」と言えるのではないでしょうか。
子どもの運動会に行って熱心に応援し、活躍する姿に親も大喜びする。
あるいは、子どもの勉学や就職を心から応援し、夢が叶えば共に喜びを分かち合う。
ここには、子どもの成長を応援する、子どもに対する「推し活」の原点が見えてきます。
「推し活」とは、親子の例からもわかるように、対象者が「自分が育てる」、「自分が成長を助ける」、「自分が応援する」という要素を根源としています。
そして、その対象者を応援し、支援し、成長を後押しすることで、対象者が活躍した時に大きな喜びを感じるのでしょう。

また、推し活中の高揚感は、明日への行動の原動力となり、豊かな思い出として心に残ります。
さらに、「また推し活に励もう」という想いが、私たち自身の生きる力となる側面もあります。
そして、推されている側も、応援してくれる人々の後押しによって、元気や勇気、やる気をもらい、さらなる高みへとチャレンジしていくことができます。
誰かの成長を応援し、支援し、その活躍を目にすることで、推し活をしている人の心は満たされ、ハッピーになる。
そして、推されている人もまた元気をもらい、幸せを感じる。
このように、「推す者」と「推される者」の間には、相互にエネルギーが循環する、素晴らしい関係性が見て取れます。

推し活に潜むリスクと心理的な罠
しかし、推し活には、そのポジティブな側面だけではない、いくつかの心理的なリスクも潜んでいます。
Index
1.推しが「国民的スター」になった時に訪れる心の虚しさ
2.ホストなどの「推し活」で破産に追い込まれる危険性
3.人生の主役は「誰」なのか?
1.推しが「国民的スター」になった時に訪れる心の虚しさ
推し活の醍醐味は、まだあまり有名ではない俳優やアーティストなどの活動を応援し、その成長を間近で支援することにあるのではないでしょうか。
そして、その成長を支援している自分自身も、推し活の対象者の活躍から、元気やパワーをもらえるのです。

しかし、ここで問題が生じることがあります。
それは、推し活の対象者が活動を引退した場合や、成功への階段を駆け上がり、多くのファンを獲得して夢を果たした場合です。
推し活の醍醐味が「対象者の成長を応援・支援すること」にあるとすれば、彼らの引退や夢の実現は、推す側にとって「推す対象を失う」という心の虚しさを生じさせるかもしれません。
もう少し詳しく見てみましょう。
たとえば、推し活の対象者が夢を果たし、スターになった場合、その人はもはや「あなただけの存在」ではなく、多くの人にとってのアイドルとなります。
推し活の魅力には「応援」と「成長」というキーワードが重要でしたが、対象者がスターになってしまった場合、「応援」はできても、「成長」に対しては、これまでのように深く関われなくなってしまうのです。

もはや自分が推し活をしなくても、彼はスターとなり、多くのファンを獲得し、夢を成し遂げて成長しました。そして、推し活として「成長を支援・応援する」必要がなくなってしまうのです。
もちろん、スターになった彼をファンとして応援し続けることは可能です。
しかし、推し活の醍醐味は、対象者への「応援・成長」が重要であり、また、推している人には「自分が彼らを盛り上げている」という自負心のようなものがあったはずです。
この自負心は、もはや皆のスターとなった彼らには通用しないでしょう。
スターへと登り詰めれば、推し活の地道な支援よりも、スターをバックアップする企業の力がものを言うステージに突入します。
この時、熱心に推し活に打ち込んでいた人は、推し活の対象者を失ったような喪失感、いわば「空の巣症候群」に陥ってしまう心理的なリスクがあります。

もちろん、時間が経てば、また「自分が推したい、成長を応援したい」と思えるような、まだ有名ではない俳優やアーティストを見つけて、推し活動を再開するのかもしれません。
いずれにせよ、ここで述べている「推し活の心理」と、単なる「ファン心理」は、根本的に異なるものだと考えられます。
実際、すでに有名なスターに対する「推し活」という言葉はあまり聞きませんよね。
「追っかけ」と「推し活」は、その本質が違うのでしょう。
2.ホストなどの「推し活」で破産に追い込まれる危険性
残念ながら、推し活によって、自分自身が不幸を背負うケースも存在します。
その典型例が、ホストに対する推し活にのめり込んでしまった場合です。
ホストに対する推し活を行うということは、自分の推すホストが、そのホストクラブ内で一番の業績を上げられるよう貢献したいと願う心理が働くでしょう。
ここにも、そのホストを「成長させたい」、「応援したい」という心理が強く作用しています。

そして、ホストを「推す」ために、身の丈に合わない高額なお酒を注文し、ホストに進呈する場面も多々あると思います。
この時、推しているホストから最高の笑顔と感謝の言葉を投げかけられたり、周囲のホストや他の客からの歓声を受けたり、他の女性たちよりも高額なお酒を購入したことによる優越感に浸ったりと、ホストに対する推し活から得られるエネルギーや高揚感は、計り知れないものがあるかもしれません。
しかし、ホストを「推し続ける」ということは、店に通い続け、高額な飲食を繰り返すことに直結します。
その結果、推し活をしている本人の預金が底をつき、店に対する未払金や、金融機関からの借金が生じることも少なくありません。未払金に対しては、ホストクラブから激しく取り立てられる場合もあるでしょう。

当然のことです。
ホストクラブはひとつのビジネスであり、そこで遊んだのであれば、そのお金は支払う義務が生じます
(但し、ホストクラブの詐欺的な行為があった場合は、この限りではありません)。
このような状況に陥った場合、弁護士と相談して自己破産をするという手段を取らざるを得なくなることもあります。
それでもなお「まだ推し活を続けたい」と思った女性は、風俗業などで高額のお金を稼ぎ、そのお金でホストに対する推し活を続ける、という悪循環に陥るケースも報告されています。
この状態では、もはや理性や知性の働きが鈍り、推し活に自己存在の価値を委ねてしまっている状態だと言えるのではないでしょうか。
特定のホストを推す行動に、自分の存在価値を見出してしまう。
誰を推すかによっては、自分自身が不幸になってしまう可能性もあるのです。
推し活とは、自身の経済状況や生活に無理のない範囲で、「応援と成長」の喜びを享受することが肝要だと考えます。

3.人生の主役は「誰」なのか?
推し活とは、対象者の活躍や成長を支援・応援することで、自分自身もハッピーになり、元気をもらえ、そして「次も推し活に参加しよう」と前向きな気持ちになる活動だと思います。
他者を推すことで自分も幸せを感じる。
一見すると、素晴らしい活動にも思えます。
しかし、人生論という大きな視点から考えると、推し活によって幸せや元気を手に入れている人は、その人生は「誰のための人生」なのでしょうか?
他者を推し、その活動を応援すること自体に問題はないと思いますが、そこに自分の全てを投げ出し、のめり込みすぎることを継続し続けることは、自分自身の人生を「生きている」と言えるのでしょうか?
本来、人生の主役は「自分」であり、自分を主とした活動を通して、生きがいや、やりがいを得て、「明日も頑張ろう」という気持ちになるのではないでしょうか。
もちろん、人生の主役である自分が、誰かを支援・応援し、その成長を支えるために生きることも非常に大切です。
例えば、家族のため、対人援助職として、あるいはボランティア活動など。
しかし、これらの活動をされている方は、自身の生活とのバランスを取りながら、その役割を果たされているはずです。

私は推し活そのものについて批判するつもりはありませんが、あまりにも推し活に熱心になり、人生の全てが推し活、働いて得たお金のほとんどを推し活に使ってしまう。
「推し活のために生きている」という状態に陥っている方を見ると、心理カウンセラーの立場からは、「本当に自分が主役の人生を生きているのだろうか?」という疑問を感じざるを得ません。
ただし、どのように生きるかは、その人自身の選択権、決定権に基づくものです。
もし、推し活に全人生を投じることが、ご自身にとっての全てであり、それによって満たされていると感じるのであれば、それはそれで良い選択なのかもしれません。