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「生きてきた」記憶と私:時間とつながれない孤独感

「生きてきた時間」というものは、私たちにとって、自分を形作る大切な要素です。
過ぎ去った日々が、今の自分につながっている。
それが当たり前だと、私たちは考えがちです。

しかし、中にはその「時の連続性」とつながれないことで、深い孤独感や「自分とは何者か」というアイデンティティの問いに直面する人がいます。

その1人が私です。

時間とつながっていない孤独感とアイデインティティの希薄さ

Index
1.記憶の途切れがもたらす「自分自身の不在」
2.キャリアの断絶とアイデンティティの揺らぎ
3.「自分とは何か」という問いと孤独感
4.人生の再構築:出来事の記憶が希薄でも、感覚的な記憶を活かして
5.アイデンティティへのこだわり:問い続ける「私」

1.記憶の途切れがもたらす「自分自身の不在」

一般的に、私たちは幼い頃からの様々な経験を脳に記憶し、その記憶の連続体として「今の自分」が存在しています。
過去の記憶と今の自分が、まるで一本の線のようにしっかりとつながっている感覚です。
ところが、もしその記憶がところどころ抜け落ちていたらどうでしょうか。

私の場合、過去の記憶が曖昧で、明確に思い出せない部分が少なくありません。
子供の頃のこと、そして48歳以降に経験した、得体の知れない不安神経症、ホルモンバランスの乱れ、更年期障害、仕事への意欲と体の状態の不一致、苛立ち、閉塞感といった困難な時期の記憶も、どうもはっきりしないのです。

実際に生きてきたわけですから、何かしらの経験はしているはずです。
しかし、その記憶が曖昧、あるいは全くない。

「過去の自分が、今の自分にところどころ欠けている」と感じているのです。

子供時代と48歳以降に共通することは、「望まない状況に置かれ、その状況に適応できなかった」という感覚。
こうした体験が、記憶の曖昧さに影響を与えている可能性も考えられます。

2.キャリアの断絶とアイデンティティの揺らぎ

記憶だけでなく、キャリアにおいても同じような感覚を覚えることがあります。
自分自身の不在の感覚、自分自身をどこかに置いてきたような感覚です。

私は大学卒業後、金融関係で長年勤務した後に、全く異なる分野である就職支援カウンセラー及び、自営の心理カウンセラーに転身しました。

実は、金融関係の仕事内容はあまり記憶がなく、自分がどんな仕事をしていたのか、今ひとつ思い出せないのです。私は数字が苦手で、仕事内容が自分の特性と合っていなかったのかもしれません。
その後、全く質の異なる就職支援カウンセラーになったことで、職歴においても、時間の連続性がないような感覚を感じてしまいます。

このように、過去の職務内容が曖昧であったり、キャリアに明確な連続性が感じられない場合も、「時間の連続体」とつながっていない感覚を覚えることがあります。

「人とは、過去の連続体によって自分を統一し、構成している」とすれば、過去がプツン、プツンと途切れて、今だけが存在しているように感じてしまうのです。

それは記憶、職業、そして置かれている状況や状態、その全てにおいて言えるかもしれません。

3.「自分とは何か」という問いと孤独感

過去の連続性がないと感じる時、「自分とは何なのだろうか」と分からなくなることがあります。
もちろん、今、自分が何をしているのかは意識レベルで理解しているものの、「時の流れの中で、その時々の自己発揮を通して形成されるはずのアイデンティティ」が希薄なのです。

過去とのつながりが途切れていると、思考面では「自分とは何?」という問いに対する明確な答えが見つからず、アイデンティティの混乱に陥ります。

そして、同時に、感覚面でも「孤独感」を感じてしまうのです
結果として、その都度、自分を「創りなおさなければならない」という感覚に駆られます。

「自分とは何者か、アイデンティティの再構築が必要」と常に迫られているような状態です。

4.人生の再構築:出来事の記憶が希薄でも、感覚的な記憶を活かして

過去の記憶が途切れることは、ある意味で人生をリセットし、新しい自分を創造することにもつながります。
記憶が定かではない時でも、その時々の体験を通して得た「感覚的な経験」や「思い」は、私たちに何らかの知恵を授けてくれているのかもしれません。

私は、過去の時間の連続体による記憶がないと、「自分とは何者か」という問いにおいて、一貫した自己を保ちにくいと感じ、孤独を覚えることがあります。
そして、新たな自分を創り出すことに、エネルギーを注ぐしかないと考えるに至ります。

「どのような経験であっても、私の場合、出来事の記憶が希薄でも、感覚的な記憶は残っています。これらは必ず、今後の人生に活かせるものだと信じたいものです。」

5.アイデンティティへのこだわり:問い続ける「私」

この人生の流れを「運命」と捉えることもできるかもしれません。

全ての経験は必然であり、全てのことには意味があるという、私的哲学に基づいて考えれば、このように結論づけることも可能です。

そして、アイデンティティの再構築という言葉を使うものの、本当はそれにこだわらない方が、もっと楽しく生きられるのかもしれない、という考えもよぎります。
その時々、時の流れに身を任せ、最善を尽くして生きる。
それだけで良いのではないか、と。

もっと気楽に、肩の力を抜いて生きたい自分がいることも確かです。

しかし、それでも「私とは何者か」という問いを、どうしても問い続けてしまう。
これは、私の「気質」や「性格」なのかもしれません。
だからこそ、私は「アイデンティティ」を重要視し、アイディンティティの再構築にこだわっているのでしょう。

もし、あなたも、私同様、「生きてきた時の流れ」とつながれない孤独感や、アイデンティティの揺らぎを感じているのであれば、一人で抱え込まず、その感覚について語り合える場を見つけることも大切かもしれません。

この文章を読んで、あなたはご自身の「生きてきた時の流れ」について、どのようなことを感じましたか?

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