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大勢の前では堂々と話せるのに、なぜ「1対1の雑談」が怖いのか?

ある有名な講演家のお話です。 彼は人生哲学を説き、全国各地を飛び回る多忙な日々を送っています。その語り口は独特の魅力にあふれ、一度聴けば誰もがその世界観に引き込まれてしまいます。

しかし、そんな彼が意外な告白をしてくれました。
「実は、1対1のコミュニケーションや、少人数での会話には強い恐怖を感じているんです」

喫茶店の片隅で、彼はぽつりと言いました。
何千人もの聴衆を魅了する先生が、なぜ、目の前のたった一人との会話に不安を感じるのでしょうか。

心理カウンセラーとして、私はその「不安の正体」を解き明かしたいと感じました。

少人数での会話に潜む「不安の正体」

私は先生に尋ねました。「大舞台で話せる先生が、雑談の何に不安を感じていらっしゃるのですか?」

すると、先生はこう答えられました。

「講演なら、話す内容は決まっています。筋書き通りに話せばいいし、質問が出ても自分の専門分野のことなら慌てずに済みます。専門分野を話している時は優越感もあり、自分を最大限に発揮できている実感があるんです」

しかし、と彼は続けます。

「少人数の集まりや1対1の雑談は別です。話題は専門外のことが多く、それに対してどう振る舞い、どう返せばいいのか分からないのです……」

先生は、公の場での「役割」がある時には完璧に振る舞えるものの、プライベートな「素の自分」が求められる場では、途端に戸惑いを感じておられたのです。

「正解」を求めすぎるという罠

さらに深くお話を伺う中で、先生の心のブレーキが見えてきました。

私が「雑談なら、もっと肩の力を抜いて、感じたことをそのまま話されても良いのではないでしょうか?」と提案した時のことです。

先生は、苦渋の表情でこうおっしゃいました。

「私は徹底的な研究と論理的データ、そして数々の正解を積み上げることで、今の地位を築いてきました。その私が、雑談のような場で『不正解な答え』を口にするわけにはいかないのです」

ここで、先生の悩みの核心が分かりました。

研究者として「正解・不正解」が明確な世界で生きてきた先生にとって、答えのない「雑談」は、自分の価値を脅かす恐ろしい場所だったのです。

「知らない」、「分かりません」と言えば、自分のプライドが傷つくかもしれない。

あるいは、完璧な自分ではない「本当の自分」を知られるのが怖い。

研究一筋で歩んでこられたからこそ、世間話という「心の遊び」を知る機会がなかったのかもしれません。

雑談は「正解」ではなく「情緒」を分かち合う場

改めてお伝えしたいのは、雑談に正解も不正解もないということです。

雑談とは、情報の正誤を競う場ではなく、単に自分の感じていることを共有し、相手に興味を持ち、お互いの体温を感じ合うためのものです。

・自分の弱さや私的なことを少しだけ開示する
・相手の言葉に共感し、理解しようと努める
・ユーモアを交えて、その場の空気を和ませる

もし先生が、学者としての「ペルソナ(仮面)」を少しだけ外して、等身大の自分で雑談を楽しむことができたら、周囲の方はもっと先生を身近に感じ、ファンはさらに増えたことでしょう。

会話を「自己の論理を証明する場」として捉えるか、それとも「心を通わせる場」として捉えるか。

もし、あなたも「人との会話が苦しい」と感じているのなら、どこかで「正解を出さなければならない」という見えない鎖に縛られてはいないでしょうか。

もっと気楽に、もっと不完全なままに。

「何を話すか」よりも、「どんな心でそこにいるか」を大切にしてみる。

それだけで、人間関係の景色は驚くほど変わっていくはずです。

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