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集団・組織において役割を与えないことは人の心を潰すことになる

役割と居場所の関係

私たちは社会で暮らしていく中で、会社や学校など、いろいろな集団や組織に属しています。

そして、そこに属する以上、自然と「果たすべき役割」が生まれるものです。

たとえば、大人の場合なら、

・会社で営業として働く
・ボランティア活動でお世話役をする
・趣味の勉強会で休み時間に周りと交流する
といった場面(役割)が考えられます。

役割は、強制されるものもあれば、自分で自然に引き受けるものもあります。

でも、集団にいる限り、何らかの形で役割が発生するのは避けられないようです。

たとえば、趣味の勉強会に参加したとき。

休み時間をどう過ごすかは自由ですが、毎回ひとりで過ごしていると、だんだん孤独を感じるかもしれません。

そして、「ここに自分の居場所はないのかも」と感じるようになり、参加するのが苦しくなってしまうこともあるでしょう。

これは、子どもたちにも同じことが言えます。

学校で孤立してしまうと、不登校につながることもあるのです。

だからこそ、集団や組織の中では、「自分の居場所」を持つことがとても大切です。

そのためには、どんな小さなことでもいいので、自分の役割を見つけることが必要なのです。

もし役割がまったくなければ、集団の中で孤立してしまい、心をすり減らし、心を潰してしまう危険もあります。

自分の役割を持つことが、安心できる居場所をつくる第一歩なのです。

集団・組織における役割と心の問題について考える

Index
1.会社にて何も役割を与えられない窓際族の悲劇
2.自分から役割を求める(創る)大切さ
3.不要な役割を自ら創り居場所を確保する・悲しく、無駄な努力

1.会社にて何も役割を与えられない窓際族の悲劇

現代ではあまり使われなくなった「窓際族」という言葉ですが、20年ほど前にはよく耳にする表現でした。

窓際族とは、会社が辞めさせたいと考えている社員を、窓際の席に移動させ、仕事を与えず、無力化(無能化)された存在です。

彼らは出社しても与えられる仕事がなく、窓際の席でただ新聞を読みながら一日を過ごすそんな日々を繰り返していました。
(当時はスマートフォンもまだ存在していませんでした。)

これは一種の差別行為と言えるでしょう。

職場で「仕事ができない」「辞めてほしい」といったレッテルを貼られ、周囲からの冷たい視線に晒されるのです。

出勤しても何の役割も与えられない。
果たすべき責任も目標もない。
そんな環境で、彼らの心はどのような状態だったでしょうか。

周囲からの無言の圧力、冷たい視線に心は萎縮し、次第に通勤の気力も失われ、精神的に追い詰められていくことになります。

やがて、出勤すること自体が苦痛となり、退職届を提出することに。

それこそが会社の狙いなのです。

組織や集団において「役割がない」ということは、「居場所を失う」ことと同義です。

たとえ「窓際」という物理的な席があっても、心の拠り所となる居場所はそこにはありません。

役割を与えないこと。

それは、いじめであり差別であり、その結果として社員は耐え難い孤立と無力感を味わい、精神的にも追い詰められ、心が潰されていくのです。

2.自分から役割を求める(創る)大切さ

一方で、組織や集団の中で、自分の役割がしっくりこない、あるいは自分の能力を十分に発揮できていないと感じる場合、自ら「役割を求める」ことは、心を活性化させるうえで非常に有効な手段です。

たとえば、会社であれば新しい企画を立案して上司に提案し、自らプロジェクトリーダーを志願する。

学校であれば、委員長に立候補し、役割を果たす中でさらに活躍の場を広げる。

このように、「役割」とは、与えられるだけでなく、自分から求め、創り出すこともできるのです。

それが自身の活路を開き、モチベーションの向上につながります。

さらに、周囲からの承認や評価を得ることで自信も深まり、やりがいを実感することができるでしょう。

こうした体験は、近年注目されている「ウェルビーイング(well-being)」

すなわち、社会的な充足感や幸福感の向上にもつながっていくのではないでしょうか。

3.不要な役割を自ら創り居場所を確保する・悲しく、無駄な努力

学校に通っていると、必ず「文化祭」のようなイベントがあります。

私はというと、学校があまり好きではなく、集団行動が苦手で、友人もほんのわずかしかいない学生でした。

大学とは異なり、小・中・高の学校生活では、勝手気ままな振る舞いは基本的に許されません。

文化祭の準備では、クラスで定めた目標に基づき、生徒一人ひとりが積極的に役割を担うことが期待されます。

「私はこれをやる」。
「じゃあ僕はあれをやる」。
と、自然に役割分担が始まります。

しかし、私には文化祭自体に対する関心がほとんどありませんでした。

とはいえ、「興味がない」と言って家に帰るわけにもいかず、かといってクラスの中心にいるような存在でもなかった私は、誰からも役割を与えられませんでした。

役割がなければ、文化祭の準備という場に「参加している」とは言えません。

そして、居場所がない。

それを痛感した私は、苦し紛れに「不要な役割」を自ら創り出しました。

たとえば、窓ふきやゴミ拾いといった、文化祭の準備とは直接関係のない仕事を見つけては、それに没頭するふりをして時間をやり過ごしたのです。

他のクラスメイトが活発に話し合い、協力しながら準備を進める中、私は一人で孤立し、ただその場にいるためだけに、誰にも必要とされていない役割を演じていました。

今思えば、いっそ家に帰ってしまえばよかったのかもしれません。

でも、なぜか、その選択肢は頭に浮かびませんでした。

もともと、私はクラス内でも浮いた存在だったため、誰からも注意されることはありませんでした。

心の中では、惨めで悲しい思いを抱えながら、無意味な役割を演じ続けていたのだと思います。

けれど、その無意味な役割がなければその場に居ることすらできなかった。

今でも文化祭を思い出すと、鬱々とした気持ちになります。

学校に通う本来の目的は「学ぶこと」であり、勉学こそが主たる役割であるはずです。

しかし、「一人が好き」な子どもにとっては、集団での活動、特に文化祭のように全体性を求められる場面では、自主的に役割を担い、協調的に参加することが難しかったのです。

いかがでしょうか。
子ども、大人を問わず、集団・組織に属する以上、果たすべき役割が必要であり
役割がないということは、集団・組織において、「自分の居場所」がないことにつながります。

自分の居場所がない、集団・組織に属し続けることは、心が疲弊し、やがては、心は潰れていくのではないでしょうか。

私の子供時の体験談も交えて書かせて頂きました。

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