帰り際に余計な事を言う人の心理

自己制御力の弱い人の問題として、言わなくても良い、余計な一言を言ってしまう問題があります。
そして、この問題は、余計な一言を言われた人の心を傷つけます。

自分が思っていること(相手に対する批判的な思考、心情)を、抑えつつ接しながらも、帰り際に余計なことを言ってしまう人は、自己制御力が弱いのです。

以前テレビの放映で、ひきこもりの方、不登校の方等の、テレビの取材において、そのテレビ取材の方が、帰り際に、「いつまでも、このような生活をしていてはダメですよ」等、余計な一言を言って、立ち去る、テレビ取材班の人達がいると、聞いたことがあります。

それを言われた、ひきこもりの方、不登校の方は当然、心が傷つきます。
今まで自分のことを理解、共感してくれている姿勢で接してくれていた人が、帰り際に、今までとは違う、真逆の余計なことを言い放つわけですから。
心は傷つき当然です。

余計な事は言わずに、仕事(取材)が終えれば、お礼だけ述べて、さっさと帰ればいいのにと、私は思ってしまいます。

取材班が帰り際に、上から目線で、失礼なアドバイスを残して帰ることは、取材を受けた、ひはこもりの方、不登校の方に、具体的にどのような思いを残すでしょうか?

結局のところ、取材中、一生懸命、今に至る事態、出来事、心の葛藤、悲しみ、これからの不安等の感情を説明したにも関わらず、何も理解してもらっていなかったのだという、何とも言えない、虚しさの感覚を抱かれる、また、余計な一言により、さらに自分が批判されたとも感じ、強い悲しみと、虚しさ、怒りを感じられるのではないでしょうか。

それに、取材中、相手を信じて一生懸命話したにも関わらず、取材班に帰り際に余計な一言を言われてしまっては、取材中の時間は一体何だったのだろう、この人達は自分のことを理解して聞いてくれていたのだろうか?

いや、理解、共感している振りをして、実のところ、反感を抱き、その反感を隠しながら、懸命に聞いていた振りをしていたではと、対人不信感も強くなるかもしれません。

いずれにせよ、何のための取材の時間だったのだろう・・・。

人の生き辛い状態の話しを聞き、それに対して、共感ではなく、余計な一言を、偉そうに言う人は、自己制御力の欠けた人と判断されても仕方ありません。

それに人として礼を失しており、とても、人の話しを聞く(取材する側)に値しない人達と考えます。

ひきこもり、不登校の経験のない大人には、その苦しみ、心理は分からないかもしれません。
それは、人が自己の経験を主として、価値判断をしているからです。
経験したことのないことは分からない、また、想像が難かしいのかもしれません。

私もひきこもり、不登校の経験はありません。
したがって、この悩み相談のカウンセリングは受け賜わらないことにしています。
それは、やはり、その苦しみが、知的、体感レベルにおいて、いまひとつ分からないからです。

さて、ひきこもりの方、不登校の方の取材をいる大人が、その苦しみを理解出来ない、その経験がなければ、理解出来ないことは仕方がないことかもれません。

しかし、最後に余計に事を言って、時間を共有した相手を傷つける権利はありません。

また、帰り際、最後に余計なことを言って帰ることは、先に書いた自己制御力の欠如であり、話しをして頂いた方に対する、礼を失する態度です。

何よりも、人を小ばかにしているようにも感じます。

プロの仕事人とは何か。

己の仕事に徹するのです。
私人としての顔を出さないことです。

取材、インタビュー中は、自己の仕事の推進のため、相手に対して感じている、批判心等を抑えられていたとしても、取材、仕事が終わった時に、気を抜かないことです。

これを考えると、取材のプロとは、帰り際に余計な一言を発することなく、人としの礼節をわきまえ、お帰りになることと思います。

人とは、自分の目の前にいる人が、自己の価値観、信念等に反した存在していることに対して、何らかの批判心、非難したい気持ちを抱くことは、誰にでもあることだと思います。

でも、その言葉を発する必要はないのです。

人には人の、様々な事情が皆あるのです。

人を尊重する姿勢、この姿勢を維持し続けることは難しいことです。
この文章を書いている私も、人と接していると、様々な感情、思いを抱きます。
しかし、例え相手を尊重までは出来ないとしても、自己制御力の力を働かし、自分を律することは出来るのではないでしょうか。

そして、何かあると、相手を批判したり、バカにしたような態度を取る自己制御力の弱い人は、その自己の人間性が疑われることを認識しましょう。

さらにそこには、傲慢の影響が見え隠れしているかもしれません。