40-不安に基づく想念・強迫観念について
前回の投稿の続きです。
私の強迫性障害の根本的な原因
私の心の奥底には、「何かを失ってしまうのではないか」という強い不安が根付いているようです。
常に、漠然とした、いえ、むしろ具体的な不安な想念が、頭の中をよぎります。
考えたくもないのに、強制的に思考が始まり、浮かんできては、強迫的に私に迫ってくる想念。
そして、その想念は具体的な言葉となって、頭の中をぐるぐると回り続けるのです。「言葉のサラダ」とも言われていますね。
以前の私の想念・強迫観念に対する対処法
さて、この想念についてですが、以前の私は、何か嫌な不安に基づく想念が出てきた時、手を洗うことで対処しようとしていた時期がありました。
厭なこと、不安なことが心に浮かび上がり、苦しくなった時、手を洗うという行為によって、不安な想念を洗い流し、浄化しようと試みていたのです。
具体的には、頭に浮かんだ不安な状況を表す言葉を、別の言葉に変換して、手を洗いながらその言葉を流そうとしていました。
そうすることで、不思議と想念が消え、私は落ち着きを取り戻せたのです。
他の人から見れば、特定の同じ行動ばかりを繰り返す、奇妙な人に映ったかもしれません。
しかし、当時の私は、想念、強迫観念、そして強迫性障害に囚われており、客観的な判断が困難な状態でした。
客観的に考えれば、想念や思い、思考そのものからは、何も現実には発生しません。
頭の中でどんなに不安なことを考えても、それが現実に起こるわけではないと、理性では理解していました。そして、その想念や思考を取り消そうと、意味のない行為を繰り返していることも、頭のどこかでは分かっていたのです。
それでも、強迫性障害による不安の力は圧倒的で、抗うことができませんでした。
まさに、不安が容赦なく迫ってきて、身動きが取れなくなってしまうような感覚でした。
現在の私の強迫性障害の状況について
現在、私は60歳になりました。
不安に基づく想念は今でもありますが、以前に比べると、その想念を相手にしない、受け流すことができるようになってきました。
今の私の強迫性障害の症状として強く感じるのは、寺社の中で不安感からくる想念が浮かぶことへの恐怖です。
まるで何か罰が当たってしまうのではないかと、さらに不安が増してしまうのです。
そのため、寺社には、よほどの必要がない限り、立ち入らないようにしています。
また、お地蔵様のそばを通る時も、強い緊張を感じます。
不安な想念が浮かばないようにと意識しながら通り過ぎようとするのですが、
その「浮かばないように」と思った瞬間に、
意識がその想念に集中してしまい、
結局、不安に基づく想念が頭に浮かんでしまうのです。
お地蔵様のそばを通るという行為が、心理的な苦痛になってしまいます。
誰しも、不安なことや心配事を考えることはあります。
どこで、何を考えようと、それがどんな場所であろうと、頭の中の想念が現実世界に影響を与えることはありません。
ましてや、私の場合は、不安な想念が浮かぶと、心の中でそれを取り消す言葉を唱えることで、打ち消そうとしてきました。
今も軽い強迫性障害を抱えている私ですが、強迫観念(想念)が浮かんできたとしても、強迫行為(想念の取り消し行動)は、ほとんどなくなりました。
頭に浮かんだ、不安に基づく想念に支配されるのではなく。
「今」に意識を集中すること。
そして、「今」、自分が成すべき行動を取ることが何よりも大切なのです。
そうすることで、頭の中の想念を自然と忘れ去ることもでき、強迫性障害も (少しずつ) 治癒していくと信じています。
それは、実際、私がその道を歩んでいるからです。
