2026年6月– date –
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自分史
30-学校における体育の時間って何の意味があるの?
私は運動音痴な子供でした。 運動音痴というか、体がうまく言うことを聞かない こんな感じです。 さて、小学校でお馴染みの鉄棒。 私は逆上がりが出来ませんでした。 それを母に言うと、小学校の鉄棒の前に連れていかれ 出来るまで、練習をさせられました... -
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29-家から放り出された怖い記憶がない(小学生低学年)
私は成績が悪いと、しょっちゅう、母に家から放り出されていたようです。 他人事のように書きましたが 私には、この記憶がないのです。 でも、事実です。 人とは不思議なもので、自分が生きる為、怖い記憶を封印、思い出せないようにしてしまう傾向がある... -
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28-親が子供のビッグマウスを否定することは子供が夢を持つことを否定すること
子供とは無邪気に遊び、時には、親もびっくりするような大人にたりたい 職業に就きたいと話す時もあるでしょう。 「ビッグマウス」。 子供のビッグマウスには、根拠はありません。 ただ、そう思っただけのことでしょう。 その、子供のビッグマウス、を真剣... -
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27-必要なものを必要と言えない子として
小学生3年生、クラス全員で体温を計る時間がありました。 先生が、1人づつ、体温計を配っていくのですが 何と私だけ、とばされてしまいました。 私は黙って、体温を計っている振りをしていました。 しかし、数分後、事実は明るみになります。 自分が体温... -
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26-親は自分の思考、主義は自己の人生を通して実践せよ・子供に関係ない
小学校、3年生、引っ越しの際のことです。 当時は、引っ越しをする生徒が、クラス全員にお礼のプレゼントを渡す、慣行がありました。 この時、私、以外、2人の生徒が引っ越すことになっていました。 さて、また、母の邪魔師の登場です。 引っ越しをする... -
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25-必要なものを必要と言えない子として
小学生3年生、クラス全員で体温を計る時間がありました。 先生が、1人づつ、体温計を配っていくのですが 何と私だけ、とばされてしまいました。 私は黙って、体温を計っている振りをしていました。 しかし、数分後、事実は明るみになります。 自分が体温... -
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24-小学校バザー・親のせいで恥をかく
小学校でバザーが開かれていました。 皆、バサ-への出品物を持って来ます。 私は母から、手作りの「コレ」を持って行けと言われ 激しい抵抗をしました。 なぜなら、皆、買った商品を持ってくることを知っていたからです。 しかし、母は譲らず。 結局、母... -
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23-母の作ってくれたおせち料理
今の家庭では、おせち料理は買う時代なので、わざわざ、手間をかけて作らないでしょう。 昭和40年代、コンビニもなく、デパート等も正月は閉まっており、食べるものがありません。 そこで、まだ、おせち料理をつくる習慣がありました。 母のつくるおせち... -
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22-正月の家庭におけるゲーム・母の嫌みが全てをぶち壊す
正月の家庭におけるゲーム・母の嫌みが全てをぶち壊す 昭和40年代。 人生ゲーム、億万長者ゲームを、私の家庭においても遊んでいました。 当時、人生ゲームは大流行していたと思います。 しかし、ここでも、母の嫌みな一言のため 私の心の楽しみをぶち壊... -
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21-親にほめられたことのない子は人をほめることを知らない
人は体験経験より学び育つものです。 私はほとんど、親にほめられた体験経験のない子でした。 自分がほめられたことがないと 成長しても、人をほめることを難しく感じます。 もちろん、言葉ではほめているのですが 心がこもっていないというか 棒読みのほ... -
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20-家族団欒・団欒のない家庭は心の交流が希薄な家庭
私の家は、雰囲気の冷え込んでいた家でした。 その大きな根源は、母の存在です。 自分にとって、気に入らないと文句をいう、ケチをつける。 しかし、その相手は子供です。 自分が気に入らないとなると、分けのわからないことで何かと文句を言われ、ケチを... -
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19-昭和40年代の京都市
私が小学1年生から3年生まで、住んでいた京都市です。 中京区に住んでいました。 河原町通りには市電が走り、 三条通には京阪電車が路面を走っていました。 寺町商店街、新京極、なつかしいなぁ。 それに、寺町商店街の鳩居堂の香り。 今でも、その香り... -
自分史
18-父との楽しい思い出
小学生低学年時、母との関係性は良いものではありませんでした。 しかし、父との関係性は、この時点では良好であったと思います。 市役所近くの喫茶店に、よく行きました。 父はヒーコー、私はジュースか、ミルクセーキ。 新京極を父に肩車してもらい、人... -
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17-父親参観日・父に対する罪悪感|小学生低学年
小学生3年生、父親参観日がありました。 私はうっかり、算数の教科書を忘れて、授業中は隣の女の子に、見せてもらっていました。 家に帰ると、父が母に話していました。 きっと、私の教科書のことでしょう。 私はこの場をどのようにして良いのか分からず ... -
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16-親戚との思い出
母方との親戚との思い出です。 夏。 遊びに行って、扇風機、風鈴、うなぎのご馳走、鈴虫の音色。 何か少し覚えています。 父方との親戚との思い出。 ありません。 母は父の母を嫌悪しておりましたので、父の親戚一切と、私を付き合わせなかったのです。 親... -
自分史
15-8歳|学友に自己承認を求めて沖縄返還記念コインをあげた私
昭和47年。 沖縄県がアメリカより日本に返還されました。 私の父は銀行員で、この時、沖縄返還の記念の100円コインを、10枚ほど、私は父からもらいました。 そして、私の取った行動は、その記念の100円コインを、小学校の友達(?)、数人にあげて... -
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14-あの子と遊ぶな|母の言葉より
小学生1年生頃でしょうか。 公園で何人かで遊んでいると、1人の男子がよく、飴を放り投げていました。 その飴を、私たちが競って拾いに行って、頂くのですが。 この飴をまく子供について 母に言われたことがあります。 「あの子と遊ぶな」。 今、50年後の... -
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13-親を泣かせた罪悪感・小学1年生
はじめて、成績表をもらいました。 小学1年生の夏休みの前。 私は、当時、この成績表が何を意味するものか、全く分かっていませんでした。 さて、はじめての私の成績表を見た母は、泣きだしたのです。 当時は、なぜ、母が泣き出したのか分からず、私は困惑... -
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12-親の養育の影響・小1では少し元気があったが小2では元気がない
さて、小学生時低学年のことを書きましょう。 私は小学1年~3年までは、京都市中央区に暮らしていました。 小学校は生徒数の少ない学校で、1学年2クラス。 1クラス、25名でした。 さて、小学1年と、小学2年の担任は同じ先生です。 そして、成績表... -
自分史
11-小学校1年生の母親参観日でのこと
未熟で勝手な親き子どもをほめず、子どもの活力を奪う はじめての母親参観日。授業は道徳の時間で、先生が紙芝居を読んでくれました。 その紙芝居の内容は 「かぼちゃ」と「すいか」が、道を挟んで育っているというお話。 ところが、かぼちゃが意地悪をし... -
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10.小1|頑固な子供であったのかもしれない
小学生2年生以降は、徐々に活発と、元気を失っていく私ですが まだ、小学生1年生の頃は、多少の元気はあったようです。 そして、頑固な子供でもあったようです。 小学生1年生の時、私が何か悪い?ことをしたようで 担任の先生に謝れと言われたのですが ... -
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9.子供時・思い出の少なさは心の固さ不活発さが原因
さて、5歳の時、京都市中京区に引っ越しをしました。 幼稚園、高学年です。 あまり、幼稚園児の記憶はありません。 プールがあった。 それと、昼のお弁当の時間、私はお弁当を残すタイプだったようで、 少し、ご飯の残っている、お弁当箱を先生の前に持っ... -
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8.母の子育てのストレス
私は2歳~4歳の間、東京に住んでいました。 この時代は、昭和42年~昭和44年。 まだ、インタ-ネットは当然なく、家庭によって、固定式の電話があるかないかの時代でした。 そして、母は大阪より、父の転勤に伴っての移動。 かつ、母には東京には親... -
自分史
7.ピアノにおける母の虐待・物差しで手の甲を叩く(幼稚園時)
さて、京都市に引っ越しても、幼稚園でピアノを習っていました。 本当にピアノを弾いて楽しいと思ったことはないのですが。 家ではピアノは母が教えていました。 しかし、母の要求通り、指を動かす、鍵盤を叩けない私に対して 母は物差しで、私の手の甲を... -
自分史
6.4歳時のとっておきの嬉しい記憶・思い出は大切な人生の資産
私が4歳の頃は、東京で暮らしていました。 先日、書いたように楽しい記憶は、ほとんどないのですが 1つだけ、嬉しい記憶、今でも思い出すと、嬉しくなる記憶があります。 実は、私は母方の曾祖母が大好きでした。 その、曾祖母が、はるばる、大阪から新...
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