46-なぜ、母は「できない私」を徹底的に調教しようとしたのか
私は、子どもの頃、勉強も運動も苦手でした。
けれど、勉強ができない、運動が苦手ということは、本当に「罪」なのでしょうか?
私は、その「できなさ」を理由に、母から何度も叱責され、罰を受けてきました。
そうした経験の積み重ねが、私の“自己抑圧的な性格”をつくりあげていったように思います。
でも、そもそも、なぜ母は、勉強や運動(あるいは「活発さ」と言い換えてもいいでしょう)に、あれほどまでにこだわったのでしょうか。
母(親)の価値観の押し付けは子どもを萎縮させる、それは罰を与えることによって
そこには、母自身の価値観や、何かしらの「囚われ」があったのではないかと、今は思うのです。
たとえば
「成績の良くない自分には価値がない」
「活発にふるまえない自分は認められない」
そういった思い込みのような価値観。
それ自体を母が持っていることは、否定しません。
人には誰しも、自分なりの価値観があるものですから。
でも、自分の価値観に合わない子どもを、叱りつけたり、叩いたりすることに、正当性はないはずです。
勉強、成績、運動、活発さ
それらが、母にとって重要な意味をもっていたことは分かります。
けれど、それを子どもに押しつけ、過剰な期待や失望を浴びせれば、子どもは萎縮し、本来持っている個性や力を発揮できなくなってしまいます。
そもそも、母は「私そのもの」ではなく、自分の価値観というフィルターを通して私を見ていたのではないでしょうか。
その結果、私は「私としての個性」を見てもらえず、知ってももらえなかった。
自分の個性を活かして生きる大切さ
私は今、自分の人生を振り返る中で、強く感じていることがあります。
それは、自分に備わっている独自の才能や能力を磨き、自分らしい人生を歩むことの大切さです。
生まれ持った個性を活かすことが、誰かの期待に応えるよりも、ずっと意味のある生き方なのだと、私は信じています。
けれど、今でも時折、ふと浮かぶ疑問があります。
なぜ、母はあそこまで「勉強」「成績」「運動」「活発さ」にこだわったのか。
なぜ、そんなに強くその価値観を持っていたのか。
もしかすると、それは「世代間連鎖」というテーマとも関係しているのかもしれません。
でも、今の私には、まだその答えは見つかっていません。
